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長年権力の座に君臨するも、中大兄皇子による「乙巳の変」で滅亡の憂き目に…《蘇我氏4代》は本当に"暴君"だったのか

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4代にわたる栄華の末に滅亡した蘇我氏とはいったいどんな一族だったのか(写真:舞流sky/PIXTA)

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ある時は大陸から伝わった仏教の保護者として、またある時は、国家体制の礎を築いた聖徳太子のパートナーとして。そして最後は、中大兄皇子に討たれた専横者として――。4代にわたり古代史に大きな存在感をはなつ蘇我氏ですが、駒澤大学名誉教授の瀧音能之氏によれば、その実像は「歴史の勝者」によって歪められている部分があるといいます。
いったい、私たち後世の人間が抱いている「蘇我氏4代」のイメージは、何が正しくて、何が誤っているのでしょうか。本稿では、瀧音氏の監修書『カラーMAP付き 世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」を歩く』から一部を抜粋・編集する形で、蘇我氏の実像に迫ります。

実在が確認できる最初の人物「蘇我稲目」

第8代孝元天皇の孫(またはひ孫)・武内宿禰(たけうちのすくね)を祖とする蘇我氏。系図には石川宿禰、満智(まち)、韓子(からこ)、高麗(こま)と名が並ぶが、存在が確認されるのは蘇我稲目が最初になる。

稲目の名が『日本書紀』に確認できるのは、宣化天皇元年(536)。稲目が大臣(おおおみ)に就任したことが記されている。以降、欽明天皇31年(570)に亡くなるまでの34年にわたって、大臣の地位に居続けた。

ヤマト政権下で蘇我氏はけっして古参ではない。稲目が大臣になったときには、すでに大伴金村と物部麁鹿火(あらかひ)が大連(おおむらじ)の地位にあった。

大臣と大連はどちらも天皇(大王)の右腕的な存在だが、大臣は経済・外交担当、大連は軍事・裁判担当と、役割は異なる。蘇我氏は遅れて要職に就いたのだ。

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