敏達天皇が亡くなり、用明天皇が即位した頃から、皇位に対する馬子の影響力が増し始める。物部守屋と結託し、皇位を脅かそうとした穴穂部皇子を討った後、馬子が擁立したのは泊瀬部(はつせべ)皇子だった。
崇峻天皇として即位した泊瀬部皇子は、稲目の娘・小姉君の息子。馬子の甥にあたる。政治の実権も馬子が握り、順風満帆に思えた。しかし崇峻天皇5年(592)、馬子は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を使って、崇峻天皇を暗殺する。
理由は明らかではないが、『日本書紀』では、崇峻天皇が献上されたイノシシを見て、「この首を切るように、自分が妬む相手を切りたい」といって、武器を集めたのを知ったためだという。また大伴嬪小手子(みめこてこ)という后が、天皇の寵愛が薄れたのを憎く思い、馬子に告げ口したからだともされる。
崇峻天皇暗殺後、馬子は実行犯の駒をも殺してしまう。「馬子の娘の河上娘(かわかみのいらつめ/崇峻天皇の嬪・ひん)の后を強奪しようとした」との罪を着せて駒を処刑することで、朝廷の混乱を最小限に食い止めようとしたのだ。
次の天皇を誰にするか。候補は複数あがったが、馬子にとっては、蘇我氏の血を引くことが何よりも重要だった。
小姉君の息子で失敗したこともあり、次は堅塩媛の系列からと考えた馬子が選んだのが推古天皇だ。こうして初の女帝を馬子と聖徳太子が支える体制をつくりあげた。
「稀代の大悪人」として語られる蘇我蝦夷・入鹿親子
歴史の教科書をはじめ、多くの書物などから影響を受け、「蘇我氏は暴君だった」とのイメージを抱いている人は多いことだろう。とくに蘇我蝦夷・入鹿親子は「乙巳(いっし)の変で殺されても仕方がないほどの、稀代の大悪人」だと思いこまれている。
そんな蘇我氏のイメージをつくりあげたのは、おもに『日本書紀』の記述だろう。『日本書紀』が編纂されたときの権力者は、中臣鎌足の子・藤原不比等。藤原氏に都合がいいように、史実が改変されている可能性が高いと考えられる。


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