有料会員登録
ライフ

長年権力の座に君臨するも、中大兄皇子による「乙巳の変」で滅亡の憂き目に…《蘇我氏4代》は本当に"暴君"だったのか

6分で読める
4代にわたる栄華の末に滅亡した蘇我氏とはいったいどんな一族だったのか(写真:舞流sky/PIXTA)
2/4 PAGES
3/4 PAGES

敏達天皇が亡くなり、用明天皇が即位した頃から、皇位に対する馬子の影響力が増し始める。物部守屋と結託し、皇位を脅かそうとした穴穂部皇子を討った後、馬子が擁立したのは泊瀬部(はつせべ)皇子だった。

崇峻天皇として即位した泊瀬部皇子は、稲目の娘・小姉君の息子。馬子の甥にあたる。政治の実権も馬子が握り、順風満帆に思えた。しかし崇峻天皇5年(592)、馬子は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を使って、崇峻天皇を暗殺する。

理由は明らかではないが、『日本書紀』では、崇峻天皇が献上されたイノシシを見て、「この首を切るように、自分が妬む相手を切りたい」といって、武器を集めたのを知ったためだという。また大伴嬪小手子(みめこてこ)という后が、天皇の寵愛が薄れたのを憎く思い、馬子に告げ口したからだともされる。

崇峻天皇暗殺後、馬子は実行犯の駒をも殺してしまう。「馬子の娘の河上娘(かわかみのいらつめ/崇峻天皇の嬪・ひん)の后を強奪しようとした」との罪を着せて駒を処刑することで、朝廷の混乱を最小限に食い止めようとしたのだ。

次の天皇を誰にするか。候補は複数あがったが、馬子にとっては、蘇我氏の血を引くことが何よりも重要だった。

小姉君の息子で失敗したこともあり、次は堅塩媛の系列からと考えた馬子が選んだのが推古天皇だ。こうして初の女帝を馬子と聖徳太子が支える体制をつくりあげた。

「稀代の大悪人」として語られる蘇我蝦夷・入鹿親子

歴史の教科書をはじめ、多くの書物などから影響を受け、「蘇我氏は暴君だった」とのイメージを抱いている人は多いことだろう。とくに蘇我蝦夷・入鹿親子は「乙巳(いっし)の変で殺されても仕方がないほどの、稀代の大悪人」だと思いこまれている。

そんな蘇我氏のイメージをつくりあげたのは、おもに『日本書紀』の記述だろう。『日本書紀』が編纂されたときの権力者は、中臣鎌足の子・藤原不比等。藤原氏に都合がいいように、史実が改変されている可能性が高いと考えられる。

4/4 PAGES

こちらの記事もおすすめ

あなたにおすすめ

ライフ

人気記事 HOT

※過去1ヶ月以内に配信した記事の閲覧数