蘇我氏が権力を得たのは、財政面での貢献があったからと思われる。天皇の命によって、諸国に屯倉(みやけ/直轄地)を設置したとされ、『古語拾遺』の雄略天皇の段には、蘇我氏が三蔵の管理に関係していたとの記載がある。
三蔵とは、朝廷の官物を納めた3つの蔵、「斎蔵(いみくら)・内蔵(うちくら)・大蔵(おおくら)」のこと。
この記述が事実だったかどうかわからないが、蘇我氏がしだいに朝廷の財政に関与するようになり、実績を積んで要職に就いたと考えられている。
欽明天皇元年(539)、欽明天皇が即位する。この時代、大伴金村が外交上の失策を糾弾されて失脚し、稲目と物部尾輿(おこし)との二強時代に突入する。
稲目は早くから欽明天皇に近づき、娘の堅塩媛(きたしひめ)と小姉君(おあねのきみ)を天皇の妃として嫁がせた。堅塩媛は7男6女を産み、そのうち2人が用明天皇・推古天皇として即位している。
小姉君は4男1女を産み、ひとりが崇峻天皇として即位するなど、天皇との関係性を深めて、権威を揺るぎないものにした。
反対に天皇も強大な豪族となっていた蘇我氏との関係を深めることで、王権の基盤を強化していった。
50年以上にわたり権力の座にとどまった蘇我馬子
蘇我稲目の嫡男で、父の死に伴って、若くして大臣の座に就いた蘇我馬子。50年以上にわたって権力の座にとどまり、多くの天皇擁立に強い影響を与えた。
馬子はその生年も、大臣に就いた時期も明らかではない。平安時代編纂の『扶桑略記』には、「推古天皇34年(626)に76歳で亡くなった」との記載があることから、欽明天皇12年(551)の生まれとされる。
大臣への着任も、敏達天皇が即位した敏達天皇元年(572)頃と考えられている。


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