有料会員登録
キャリア・教育

朝ドラ《ブラッサム》宇野千代が生きた時代に起きた"ミスコン"巡る大騒動…「1位になったのに」裏にあったまさかの事態

6分で読める
末広ヒロ子(写真:近現代PL/アフロ)
  • 真山 知幸 伝記作家、偉人研究家、芸術修士(MFA)
2/3 PAGES
3/3 PAGES

それもそのはず、当時の学習院院長は、陸軍大将の乃木希典である。乃木といえば、森鷗外が『独逸日記』で「長身巨頭沈黙厳格の人なり」と初対面の印象をつづったように、厳格な人物として知られており、昭和天皇の教育係も務めていた。美人コンテストなどという不埒なものを、許すような人物ではなかった。

間の悪いことに、乃木が院長に就任してから1年が経ったばかりの頃に、このコンテストが行われた。案の定、学校はヒロ子を諭旨退学処分とした。院長である乃木の判断によるものとされるが、女学部長が強く主張したともいわれる。

本人が応募したわけではないとして、親や新聞は処分の撤回を求めたが、受け入れられることはなかった。

処分が決まる前、明治41(1908)年3月22日付の「大阪毎日新聞」には、当時の学校側の意見が、次のように掲載されている。

「女は虚栄心の盛んなるもの、いわんや女学部生徒のごとき上流の家庭に育ちしものにありては、本人が虚栄心に駆られて自ら応募せしならば、他の生徒等の取り締まりの上、停学もしくは諭旨退学の処分をなさんと目下しきりに協議中にて、(中略) なおヒロ子他これに応募したる同校生徒をもそれぞれ取り調べの上、処分するはずなりと」

見せしめ的な要素が強かった

どうも見せしめ的な要素が強かったようだ。大阪毎日新聞は、その翌日にもこの事件を取り上げており、また、新たな視点で論を展開している。

「今度の事で問題にすべき事があるとすれば、それは他ではない、ひろ子をして同校に止まる事の出来ない程嫉妬の揶揄を試みる生徒間の卑劣心である」

学校が非情な決断を下したのは、ほかの生徒への影響も考えた結果だったのだろう。この事件のインパクトは大きく、この後から、教師や婦人雑誌の記者は「美人」の代わりに「佳人」と言い換えるほどだった。

ヒロ子を「日本一の美人」に選んだ時事新報は、それから13年後の大正10(1921)年、ある女性の小説を懸賞の一等に選ぶ。宇野千代の『脂粉の顔』である。千代は、ここから作家への道を歩み始めることになる。

【参考文献】
黒岩比佐子著『明治のお嬢さま』 (角川選書)
『新潮日本文学アルバム 樋口一葉』(新潮社)
『新潮日本文学アルバム 宇野千代』(新潮社)
宇野千代著『生きて行く私』(角川文庫)

こちらの記事もおすすめ

あなたにおすすめ

キャリア・教育

人気記事 HOT

※過去1ヶ月以内に配信した記事の閲覧数