明治34(1901)年、大関和は東京看護婦会に辞表を提出すると、箱根にしばらく滞在している。亡き娘のことを考えながら、これから自分はどのようにして生きていくべきか。今一度、自分の人生とゆっくり向き合いたかったのだろう。
しかし、そんなときでさえ、つい仕事をしてしまうのが、いかにも和らしい。『婦女新聞』『婦人新報』『女学雑誌』などから依頼を受けていた原稿に、じっくり取り組んでいる。出発の時点で、ナイチンゲールの文献や看護の専門書などを荷物に入れておいたようだ。
励みになったナイチンゲールの生き方
何度読んだかわからないナイチンゲールの言葉を噛みしめて、その生き様を改めて振り返る。そんな良い機会にもなったのではないだろうか。これはナイチンゲールに限ったことではないが、偉人の伝記は読む年齢によって受け取り方も異なるし、着目する時代も変わってくる。
やはり自分が若い頃は「偉人がどのように転機を迎えたのか」が気になるところ。とりわけナイチンゲールは、看護婦になるにあたって、両親から大反対を受けている。召使いがやるような仕事をなぜやるのか。生まれが裕福だっただけに、周囲を説得するのにナイチンゲールがどれだけ苦心したことか。和もまた、離縁して地元を出て、苦難の中で一から東京生活をスタートしている。ナイチンゲールの下積み時代は、励みになったことだろう。


※ログイン後、コメント入力が可能です。