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キャリア・教育

最終回《朝ドラ》「風、薫る」73歳で亡くなった大関和、看護婦として挑んだ関東大震災での「最後の仕事」

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東京都復興記念館(写真: Morisot / PIXTA)
  • 真山 知幸 伝記作家、偉人研究家、芸術修士(MFA)
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誰がやっても難しい時期に差しかかっていたが、和の情熱があれば、突破できるかもしれない。自分が身を引くことで、一度は辞職を決めて立ち去った和の居場所を作る。そんな思いもあったのではないだろうか。

和の性格を雅が知るように、雅の性格もまた和はよく知っている。揺るぎない決意を感じた和は、雅から東京看護婦会を引き継ぎ、会頭に就任することとなった。

といっても、雅は和に無責任な丸投げをしたわけではない。会長を辞めたあとも、和を気にかけて、わざわざ近くに引っ越してきている。会長になったばかりの和を、近くでフォローしようと考えたのだろう。

実際に、2人のやり取りは、以前よりむしろ密になったようだ。和も雅の立場になり、改めて友がこれまでやってきたことの大変さを噛みしめたのではないだろうか。

現場に心を寄せ続けた和の生涯

会頭に就任した和は、そこで満足することなく、明治42(1909)年には自ら「大関看護婦会」を設立し、後進の育成に力を注ぐ。明治44(1911)年には大日本看護婦協会東京組合長にも就任し、業界全体を束ねる立場としても活動の幅を広げていった。

大正7(1918)年頃からのスペイン風邪の世界的大流行では、看護婦不足の中、和のもとにも需要が殺到する。

追い打ちをかけたのが、大正12(1923)年の関東大震災だ。大関看護婦会の拠点は焼失し、以後、移転を繰り返すことになる。だが、被災地からの要請が相次ぐ中、和が向かった先は意外な場所だった。

吉原で大火災が起き多数の娼妓が犠牲になったと聞くと、和はあえて被害の大きい吉原へ足を運び、娼妓たちの救護にあたった。最も見捨てられやすい人のもとに駆けつける。大関和は最後までそんな看護婦だった。

昭和4(1929)年、和は脳溢血で倒れる。以後、半身が思うように動かなくなり、現場を後進に託して療養生活に入ると、昭和7(1932)年5月22日、73年の生涯を閉じている。

倒れてなお、最後まで現場に心を寄せ続けた和の生涯は、まさに「日本のナイチンゲール」と呼ぶにふさわしいものだった。

【参考文献】
青山誠著『大関和 看護に人生を捧げた日本のナイチンゲール』(角川文庫)
田中ひかる著『明治のナイチンゲール 大関和物語』(中公文庫)
田中ひかる監修『大関和 明治のナイチンゲールたち』(平凡社)
櫻庭由紀子著『戦う白衣の天使 大関和・鈴木雅ものがたり』(内外出版社)
真山知幸著『おしまい図鑑』(笠間書院)

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