岩国は戦国大名・毛利輝元の次男・吉川元春の子、広家を初代とする吉川家が築いた城下町で、3代藩主・広嘉が架けた錦帯橋で知られる。中の3橋の橋脚がないアーチ橋は1673(延宝元)年の完成から台風で流出するまで276年間もその奇観を誇り、千代もこの橋の美しさを心に刻んだ。
「岩国にはどなたもご存知の名橋錦帯橋がありますが、その錦帯橋のかかっている錦川の土手の桜並木といったら、たとえようのない見事さなのです。子供の私には、桜並木は、巨大な花の天蓋がどこまでも続いているかに思えたものでした」(『決定版 宇野千代の世界』より)
裕福な生まれの父、実母とは病で死に別れ
千代の生家は錦帯橋の下流に架かる臥龍橋を渡った錦川西岸の街道筋にあり、父・俊次が40歳を過ぎてから、古い庄屋の家を買い取ったものだという。俊次は山陽道の宿場町として栄えた高森(現・岩国市)の造り酒屋「有延屋」の次男で、分家の養子となり、兄の政介からの仕送りで放蕩生活を送っていた。
千代が生まれたとき、俊次は42歳。トモは24歳。その後、肺結核で別居療養を余儀なくされたトモは、見舞いに訪れた幼い千代を見て、「この児のことが気にかかってのう、死んでも死にきれんでよ」と泣きながら、1899(明治32)年7月13日、25歳という若さで亡くなった。
1歳7カ月で母を亡くした千代は高森の父の生家に預けられた。2歳半で川西に戻ると、父は若い後妻を迎えていた。生母の記憶がまったくない千代は、まだ17歳の、若く美しい佐伯リュウを実母だと信じて育った。
千代は近在に名の聞こえた素封家「高森の宇野」の分家の娘として「千代さま」と呼ばれて育った。俊次とリュウの間には、長男・薫、次男・鴻(ひろし)、次女・勝子、三男・光雄、四男・文男が生まれたが、リュウは千代と実子を分け隔てすることなく、むしろ弟妹たちが長女の千代を立てるような育て方をした。
千代も弟妹たちの面倒をよくみる「姉さま」で、きょうだい仲はよかった。


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