家族が増えても俊次の放埒な暮らしは改まらなかった。絶えかねたリュウが夜更けに家を抜け出し、4kmほど離れた川下村(現・岩国市)の実家に逃げ帰ったこともあり、母を求めて泣き叫ぶ千代を女中がおぶって川下村まで連れて行ったという。
「あのとき千代さんが、わしを追うておいでんかったら、わしはこの家には戻らんかったかも知れんでよ」とリュウは言った。
俊次は競走馬を走らせ、小鳥を飼い、珍しい樹木や金魚を育て、米相場や博打に手を出し、錦見の花街に通った。財産を使い果たした俊次はついに高森の実家に馬で乗り入れ、道楽を諫める兄・政介を脅したこともあった。こうして裕福だった宇野家は次第に困窮していった。
浪費家で放埒な父に振り回される家族
千代の父・俊次は底なしの浪費家だった。自分の気の向くままに振る舞い、家族はその行動に振り回され、従うしかなかった。
1904(明治37)年、日露戦争が開戦した直後の4月、千代は岩国尋常小学校(現・岩国小学校)に入学した。錦川に架かる臥龍橋を渡って通学したが、千代も弟妹たちも帰宅後に遊びに出ることを禁じられた。
千代は毎日父に命じられて米相場の記事が載った新聞や酒を買いに行き、途中の屋台の品書きを暗記して戻り、父の食べたいものをもう1度買いに出た。
いつの間にか女中はいなくなり、文房具も満足に買えず、雪の日は、「足は濡れても腐らないが草履は腐る」という俊次の理屈でわら草履を履くことを禁じられた。周囲は不憫がったが、千代にとって父の命令に従うことは当然で、自分を不幸だとは思わなかった。
「私の父親というのは、バルザックかドストエフスキーの小説の中にしか出てこないような一種の畸人ないし狂人だったと思うが、しかし、そういう父親のいるそういう家を家庭として育った子供であっても、子供の頃の私は、決して自分は不幸な子供だと思っていなかった」(『幸福を知る才能』より)


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