ところが、その年の12月8日に運命の太平洋戦争が始まった。
製作を担当している立川飛行機にも生産中の軍用機の急遽増産が指示され、「不要不急」とされた民間機A-26の生産は資材の調達、工員の確保等に支障が生じた。
軍用機キ77への変身と極秘訪独飛行の悲劇的結末
当時、アメリカ、イギリス、ソ連、中国の連合国側は共同作戦を行うために頻繁に連絡会議などを行っていたが、対照的に日本とドイツ、イタリアの同盟間の相互の連絡は無線通信以外不可能でほとんど途絶状態であった。
この状態を打破するための連絡ルートの開設が急務となり、まず潜水艦派遣による方法が検討された。その結果、昭和17(1942)年春に海軍軍令部は連合艦隊に対し軍機(極秘)扱いとして伊号第三十潜水艦のドイツ派遣を命令、期日は同年4月内地発、9月帰還とした。
陸軍としてもドイツとの連絡の必要は痛感してはいたが、現実として手持ち航空機の航続性能の不足からドイツへの派遣など不可能であり、海軍任せで手をこまねいているほかはなかった。
その間、7月にイタリアからサボイア・マルケッティSM.75型機がクリミヤを出発、ソ連領南部上空を通過し突然当時日本の影響下だった包頭(現在中華人民共和国モンゴル自治区)に飛来し、その後東京(福生飛行場)に到着、という事態が起こり、日本としてイタリア空軍の実力を見せられた衝撃は大きかった。


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