永福町・西永福は幹線道路を除けば車通りが少なく、セミの鳴き声が響く閑静な住宅地といった様相である。
京王井の頭線の開通を機に宅地化が進行
永福町・西永福はどのようにして今の姿になったのか。
遡ること江戸時代、現在の杉並区域は永福寺村を含む18の村と、上高井戸宿、下高井戸宿の2宿に分かれていた。永福寺村の地名は永福寺に由来している。永福寺は曹洞宗で、室町時代の1522(大永2)年に創立した。
永福寺村の発展は、小田原城落城後に北条氏の家臣・安藤式部丞が当時の住職を頼ってこの地に帰農して永福寺の檀家となり、村の開発に努めたとされている。
明治になり、1889(明治22)年に町村制が施行され、永福寺村は他3つの村と合併して和田堀内村となった。この頃の永福町はまだ農村だった。
杉並区の街が変わる契機となったのが、1923(大正12)年の関東大震災である。東京市から人口が流れ込んできて市街化が進んだ。しかしこのときの市街化は甲州街道沿いのほうが著しく、永福町はそれほど影響を受けなかった。
永福町の市街化が進むのは、昭和に入ってからである。1933(昭和8)年に帝都電鉄(現・京王井の頭線)の渋谷-井の頭公園間が開通し、永福町駅・西永福駅が開設された。当時の沿線はのどかな田園風景が広がっていた。
翌1934(昭和9)年ごろから、帝都電鉄が不動産事業に乗りだす。建築費を低金利で貸し付けたり、1年間無賃優待パスを発行したりと沿線住民の増加に努めた。
駅の開設にあわせて、西永福駅の南側一帯(永福3丁目)では1934(昭和9)年末〜1938(昭和13)年にかけて土地区画整理事業が実施された。その他のエリアでも住宅地として多くの土地が分譲された。
このように永福町・西永福では、現在の京王井の頭線の開通を機に宅地化が進行した。


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