稼ぎ手を失い、あるいは仕事を失った家庭は、子どもを育てる余裕もなくなっていく。経済的困窮から、やむなく子を手放すことが増えていったと考えられる。
「絵に描いた餅」だった政府の救済策
そんな状況を受けて政府は、明治4(1871)年には「棄児養育米給与方」という、捨て子を対象にした専用の給付制度を開始。明治7(1874)年の「恤救規則(じゅっきゅうきそく)」にもその考え方が引き継がれ、「13歳以下で、頼れる身寄りが誰もいない子ども」は正式な救済対象となった。
だが、この制度は「絵に描いた餅」に近かった。というのも、まず給付額が極めて少なく、子どもには年間7斗分の下米換算の現金給付にとどまった。実際に一人の子を育てるには到底足りない水準だった。
しかも、これはあくまで「その子を実際に引き取って育てる人」に対して支払われる仕組みであり、国が孤児院のような施設を用意して積極的に保護する制度ではなかった。つまり、誰かが「よし、この子を引き取ろう」と手を挙げてくれなければ、制度自体がまったく機能しない。
都市化によって「捨てれば誰かが拾ってくれる」という共同体の暗黙の安全網が崩れていたにもかかわらず、制度側は相変わらず「誰かが拾ってくれる」ことを前提にしたままだったのだ。
実際には、孤児の救いにあまりならなかった「恤救規則」。前文に「済貧恤窮は人民相互の情誼によるべし」とある。つまり、困窮者の救済は近隣の情けに委ねるべきものだ、としており、国はあくまで「引き取り手がいる場合の、ごくわずかな後押し」をするだけ。引き取り手自体を確保する責任は負わなかった。

