看護婦として成長した直美が、捨てられてから何十年もの時を経て「母の死を看取る」という形で、母との再会を果たすこととなった。
いかにもドラマらしい展開だと感じた視聴者もいるかもしれない。だが、明治期において、直美のような孤児は珍しくなかった。
近代化で「捨て子の受け皿」が減少
「帝国統計年鑑」に基づく集計によると、明治12年時点で約5200人、明治20年で約5800人規模の捨て子が把握されていた。
江戸期には全国規模の統計が行われていないため、単純にそれまでと比較はできないが、少なくとも、大正や昭和と比べたときに、親に捨てられた子の総数が断然多かったのが、明治という時代だった。
なぜそれほど多くの親が、我が子を手放さざるをえなかったのか。
江戸時代、捨て子の実際の受け皿になっていたのは、幕府でも藩でもなく、村落共同体や親族ネットワークだった。「子のない夫婦が拾って育てる」「跡継ぎのいない家が養子として引き取る」といった形で、共同体のなかに「親が育てられない子」をカバーする仕組みが機能していたのである。
江戸期において、いち早く捨て子の対策を行ったのは、5代将軍の徳川綱吉だ。
綱吉といえば、犬をやたらと大切にした「生類憐みの令」を出した犬公方として知られているが、「生類憐みの令」というお触れが出されたわけではない。生き物の保護を訴える法律の総称をそう呼んでいるだけで、そのなかには、元禄3(1690)年前後に出された「捨て子禁止令」のような法律もあった。
これは、幕府が子どもを直接養う制度ではなく、「まずは子を捨てるな、そして子を拾ったら誰かが養え」と地域社会に義務づけるものだった。つまり親にとって子を捨てるのは、最終手段ではあっても「地域の誰かが何とかしてくれる」という一縷の望みを託せる選択肢だった。
ところが明治の近代化によって、この受け皿が徐々に失われていく。殖産興業のもとで工場労働者や都市下層民として村を離れる人々が急増。生まれ育った共同体から切り離された生活を強いられるようになった。
都市に出れば、子のない夫婦や跡継ぎを探す家が近所にいるとは限らない。「捨てれば誰かが拾ってくれる」という村社会の暗黙の安全網が、都市では機能しなくなっていたのである。

