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キャリア・教育 #戦国最強の兄弟の軌跡

《本能寺の変》には「まさかの黒幕」が存在した?!織田信長の最期にまつわる"大きな謎"に迫った

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明智光秀(写真:akg-images/アフロ)
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光秀は「一度ならず二度までも斎藤が稲葉のもとを去ったのは、稲葉の待遇が悪かったからでしょう。斎藤を今回も稲葉のもとに返したならば、斎藤は他国に出奔してしまうと思います。斎藤は役に立つ者ですので、それがしのもとに留め置きたいのです。稲葉のもとには決して返しません」と信長に口答えしたものだから、信長は怒り心頭。光秀の面(顔)を扇で何度もひどく叩きます。

そこに現れたのが秀吉であり、秀吉は光秀の耳元でこうささやくのです。「主君(信長)は酷い人だ。われわれが骨を折って命を捨てて苦戦し大国を攻め取っても、いつまでもこのような態度を取られる。告げ口のために命を落とさないよう、随分、御身を大切になされよ」と。

この秀吉の言葉により「邪念」(つまり信長への謀反心)が起こったというのが『三河後風土記』の記すところです。

また江戸時代初期に成立した随筆『老人雑話』(医師で儒学者の江村専斎の談話を門人・伊藤坦庵が筆録編集した書)にも、秀吉が光秀に「夜に城を普請して謀反を企てていると人が皆言うているが、如何」と問う場面が記されています。秀吉の問いに光秀は「くだらないことを言う」と笑いつつ返答したとあります。

「秀吉黒幕説」の論拠を検証する

『三河後風土記』と『老人雑話』の逸話も面白いものではあるのですが、史料的価値の高い書物ではないので、これでもって秀吉が黒幕だったということはできません。もちろん、秀吉が黒幕だったことを示す一次史料などはありません。

話はそれで終了でもよいのかもしれませんが、やはりここで「素早く敵対する毛利と和睦を結び、ありえないスピードの中国大返しで都に帰還した秀吉の動きは不自然だ」とする秀吉黒幕説の論拠を検証していく必要があるでしょう。

本能寺の変当時、秀吉は毛利方の清水宗治が籠る備中高松城(現在の岡山市北区)を水攻めにしていました。そこに「信長死す」の報が到来、秀吉軍は敵対していた毛利方と素早く和睦し、備前沼城(岡山市)から播磨国姫路城(姫路市)までの約70キロを一昼夜で進軍するという驚異的な行軍を成し遂げたとされます。

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