それもそうで、たとえば夫婦世帯で考えるならば、メディアは「共働き夫婦が増えた」などと、さも夫婦の価値観が変わったように悠長に報道しますが、実情はそうではありません。「共働き・二馬力で稼がないと生活が成り立たなくなってきている」からそうなっているだけです。日々の食品などの物価高に加えて、住宅費も高騰。地方在住の方にしてみれば「生活の足」であるクルマのガソリン代の高騰もあります。子どものいる世帯は将来の教育費の心配や老後資金のこともあります。
何から何まで、物理的なインフレとともに、かつてそんな心配は無用だった「普通」の意識のインフレが同時に起きています。要するに「普通の暮らし」をするために「必要なコストがインフレしたために、今までの普通が普通ではなくなった」ということです。
失われたのは「将来なんとかなる」という安心の共有
改めて、ここで、失われた「普通」とは何か、を考えてみましょう。それは、職業や所得、住むエリアや、未婚か既婚かという世帯構造が違っていても、それぞれの人がそれぞれの人生で「将来なんとかなる」と思える「安心の共有」だったのではないでしょうか。それが不確実性や不安の増加に伴い、「安心するためにはここまで必要」という普通の基準があがってしまったわけです。
その高くなった基準をクリアできる層はいいですが、それらはせいぜい上位3割程度に限られます。それ以外の7割は、「客観的に普通であっても安心できない」心理状況に追い込まれていきます。働いてもまだ足りない、夫婦二馬力で稼いでも追いつかない。毎日働いて疲れ果て、子どもとの時間も楽しめなくなる。一体何のために働いているのかすらわからなくなってしまう。
結婚を希望する若者たちも、知らぬ間に、結婚の条件が、年齢や年収だけにとどまらず、家事育児能力やコミュ力、果ては「清潔感」という名の下の容姿まで徹底的に吟味される条件競争の中に巻き込まれています。加えて、職場では恋愛はリスク、交際にあたっては同意が必要などと面倒な規制ばかりが増えて、安心を得るためにはむしろ「何も行動しないほうが得なのではないか」と思うようになります。若者がことさらコスパ・タイパを口にしてしまうのも、「普通が普通ではなくなった」現代においては、「普通の安心を得るための防御本能」なのかもしれません。
誤解を恐れずに言えば、「昭和は何も考えなくても、普通の安心がそこにあった時代」だとすれば、「令和はいろんなことを考えなくてはならず、考えた末に安心を得るための最小リスクを求めるならば、何もしないことが合理的な時代」になってしまったと言えるでしょう。
婚姻減や少子化を若者の価値観変化などと逃げるのではなく、社会構造や経済環境がもたらした結果であるという認識が必要です。普通が普通ではなくなったことこそが異常であり、安心が失われた社会に未来はないでしょう。「普通のインフレ」をこれ以上悪化させないよう、「安心のインフラ」を再度整えていく姿勢が必要です。

