西三河最大級の商業都市だった岡崎に、なぜ百貨店は残らなかったのか。本稿では、その歴史をたどりながら理由を探っていく。
(なお、本稿でいう「百貨店」には、地元商店が共同で出店した寄合百貨店や、百貨店に近い業態の大型店も含む。以降は、これらを大型商業施設として扱う)
百貨店と大型店がひしめく激戦地
岡崎市は城下町であると同時に、東海道の宿場町でもある。岡崎市史は「明治・大正・昭和を通じて西三河の商業中心地だった」と記している。その中心が、東岡崎駅から歩いて20分ほどの康生地区である。
最盛期、この一帯には大型商業施設が集中していた。松坂屋を核テナントとする「レオ」、名鉄系の「サンリバー」(のちの岡崎メルサ)、駐車場を備えた「セルビ」、4棟からなる「シビコ」。さらに東岡崎駅前には岡ビル百貨店やユニーもあった。
この街並みは、一朝一夕にできたものではない。その始まりは終戦直後の闇市まで遡る。
1946年、八幡町の疎開道路には約200戸のバラック商店が並び、「中央マーケット」と呼ばれる集団商店街が誕生した。市史によると、東海一をうたい、演芸場まで備えていたという。焼け跡に生まれた闇市が、25年後には全国初の再開発へとつながっていく。

