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ライフ #秀吉を天下人にした男、豊臣秀長の実像

"本能寺の変"前夜、出世の階段を駆け上がっていた男の正体 冷徹な信長が二度も裏切った弟の子を重用したワケ

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大溝城跡(写真:びわ湖高島観光協会)
  • 真山 知幸 伝記作家、偉人研究家、芸術修士(MFA)

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連載「秀吉を天下人にした男、豊臣秀長の実像」の第27回は、織田信長の弟・信勝が遺した子・織田信澄について『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』の著者・真山知幸氏が解説する。

普通に考えれば、織田信長がいつ粛清してもおかしくない男だった。信長の甥・津田信澄のことである。

父は信長の同母弟・織田信勝(信行)だ。信勝は織田家の家督をめぐって兄と対立し、弘治2(1556)年の稲生の戦いで挙兵するも敗北した。

母・土田御前のとりなしで一度は許されたものの、懲りずに翌年には再び謀反を計画。これを家臣の柴田勝家が信長に密告したことで露見すると、信勝は清洲城に呼び出されて誅殺された。一度ならず二度までも兄に反旗を翻した末の最期だった。

信澄はその「二度の謀反人」の遺児として生まれた。本来であれば、織田家のなかでもっとも警戒されてもおかしくない出自だ。それにもかかわらず、信長は信澄を抹殺するどころか、柴田勝家のもとで養育させている。

二度も裏切った弟の遺児を信長は抹殺しなかった

二度の謀反人の遺児でありながら、信長が生きているあいだ、信澄はむしろ織田家中で出世の階段を駆け上がっていた。

信長は信澄に、重臣の明智光秀の娘を娶らせている。さらに元亀2(1571)年には、信澄を浅井氏の旧臣・磯野員昌の養嗣子とし、近江西岸の押さえとしている。

また天正2(1574)年に、上洛した信長が内裏に対して東大寺正倉院の御物「蘭奢待」の所望を申し入れると、正倉院は開封され、名香「蘭奢待」が切り取られた。その際に奉行を務めたのも信澄である。当時はまだ元服前で、「津田坊」という童名で呼ばれていたが、すでに信長のそば近くに置かれていたのである。

天正6(1578)年に員昌が信長の叱責を受けて出奔すると、その所領・高島郡をそのまま信澄が引き継いで、近江・大溝城主となった。

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