そして、織田家のこれからを考えたときに、信澄は使い道のある人材でもあった。年齢的には信長の嫡男・信忠とほぼ同世代にあたり、実際に信忠の配下として戦場をともにしている。
信長の世代だけでなく、信忠の世代を支える人材として、信澄を手元で育てておく狙いがあったのではないだろうか。
「本能寺の変」により人生が暗転する
ところが、信澄の運命は本能寺の変によって一夜にして暗転した。
信長を討ったのが、ほかでもない信澄の舅にあたる明智光秀だったからだ。当時、信澄は四国遠征軍の副将として、織田信孝・丹羽長秀とともに大坂にいた。大坂の市中に「謀反は信澄と光秀の共謀である」という噂が広まると、信孝と長秀はこれを信じて信澄を攻め滅ぼした。
奈良・興福寺の僧侶が記した『多聞院日記』では、信澄についてこう書き残している。
「6月5日。一つ、大坂において七兵衛(信澄)を殺害したとのこと。光秀の娘婿で、たいへん優れた人物であった。三七殿(織田信孝)、丹羽五郎左衛門(長秀)、蜂屋(頼隆)らの仕業だろうか。ただし、これは噂かもしれない。」
<六月五日、一、於大坂七兵衛ヲ生害云々、向州ノ聟一段逸物也、三七殿、丹羽五郎左衛門鉢屋らとノ沙汰歟、但し雑説歟>
同時代の記録者の目から見ても、信澄が能力ある武将だったことは確かなようである。信長が買っていたはずの「光秀の娘婿」という立場が、信長の死後はそのまま「謀反人の縁者」という疑惑の根拠に転じてしまった。
もし、信長が生きていれば、信澄はその後も織田政権の中枢で活躍し続けたに違いない。それほどまでに、信長は信澄という男を買っていた。信長が自らの子でない一族のうち、最も信頼を寄せていた一人が、弟・信勝の子、信澄だったのである。
【参考文献】
太田牛一著、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)
村上直次郎訳、柳谷武夫編輯『イエズス会日本年報 上』雄松堂書店)
杉山博編『多聞院日記索引』(角川書店)
河内将芳著『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』(戎光祥出版)
河合敦著『豊臣一族 秀吉・秀長の天下統一を支えた人々』(朝日新書)
真山知幸著『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』(日本能率協会マネジメントセンター)


