もっとも、現代はミドル・エイジについて考えるのが極めて難しい時代だと思います。なぜなら、不安定な社会とは人々に青年期的な生存を求める社会であるからです。私たちは何歳になっても、生き延びることを考え続けなくてはなりません。
いや、それだけではない。そういう不安定な時代におけるミドル・エイジ・クライシスが、「贅沢な悩み」に見えがちなのも問題です。実際贅沢なのかもしれません。というのも、その本性として、中年危機とは、束の間発生した小さな安定からもたらされる思索であり、苦悩であるからです。
ひとまず安定した。では、これからどうしたらいいのか?
実際には一寸先は闇で、はかなくも崩れ去ってしまう脆い安定かもしれません。それでも、その小さな安定があったからこそ、自分を振り返る瞬間が生じているのではないかと思うのです。私はそれはとても貴重なことだと思います。
一方で、不安定な社会において、小さな安定の中のことを考えようとするときに、どうしても「疚しさ(やましさ)」という感覚が伴います。おそらく、この疚しさゆえに、ミドル・エイジの苦悩は人類の秘密とされてきたのでしょう。
自分の小さな安定を人前に出して見せることには罪悪感があるものです。安定した社会ならまだしも、不安定な現代においてはなおさらでしょう。そこではミドル・エイジ・クライシスは社会的な問題とは言い難く、個人的に抱えるしかないものとなります。
ここにミドル・エイジの孤独があります。他者と分かち合うことのできない悲しさがあり、喜びがあり、寂しさがあり、疚しさがあるのが中年だと思うのです。
だからこそ、私はこの疚しさを引き受けることが大事だとここで書いておきたい。疚しさを感じながら、その上でそれを否認せずに、自分の中の深い森で起きているクライシスに取り組むことを肯定したい。日々、心理士としてミドル・エイジたちと会い、彼らがその疚しさによって、誰にも知られることなく孤独に抱えてきた物語を聞いていて、そう思います。
それは贅沢な悩みなんかではなく、切実な苦しみである。そして、その深い孤独を個人的に引き受けることができたときに、人は他者の深い森のことを思えるようになる。疚しさのようなぼんやりした感覚ではなく、より明確な想像力をもって。
ミドル・エイジの孤独とは、同時にミドル・エイジの自由でもあるはずです。それは他者には理解されないとしても、自分なりに納得することができた物語のもつ自由の力です。それこそが、他者の自由を許容する力になると私は思います。

