安重根は旅順の刑務所で死刑を待つ間、日本人の司法関係者や看守らの求めに応じて揮毫(きごう)を行った。堂々とした態度に感銘を受けた人も多く、日本に持ち帰って家宝とした。
約200点存在すると推定される遺墨のうち、所在が確認されているのは約60点に過ぎず、その多くが、いまだに日本のどこかに眠っている。
日本に渡った遺墨、「個人の所有物」がネックに
事情を複雑にしているのは、遺墨は安重根が日本人に贈ったものであり、個人の所有物となっている点だ。日本の統治時代に朝鮮半島から日本に運ばれた「略奪文化財」とは同列には扱えず、政府ルートを通じての交渉にはなじまない。個人間の売買が中心となっている。
遺墨が韓国に渡るルートは主に3つある。1つは「寄贈」だ。日本人の子孫が韓国側に提供するケースで、現在、ソウルの安重根義士記念館などで展示されている作品の多くは、この形で韓国へ渡った。
次は、「購入」である。所有者の世代交代が進み、遺墨への思い入れも薄れている。このため、オークションで売却されるものだ。
3つ目は「長期貸与」だ。日本側に所有権を残しつつ、韓国に一定期間貸与する方式だ。東京都立の蘆花恒春園内にある蘆花記念館が、所蔵する遺墨を韓国側にたびたび貸与している。
ここ数年、安重根の遺墨は韓国の美術市場で異例の高騰を続けている。2023年以降、落札価格は10億~20億ウォン台(約1億~2億円)に達し、韓国書道作品の競売記録を更新するケースも相次いでいる。背景には、韓国企業による文化財保護支援や、博物館・自治体による収集競争がある。安重根の遺墨は「愛国の象徴」としての意味合いも強く、展示施設にとって重要な目玉作品となっているためだ。
2023年12月、ソウルオークションでは「龍乕之雄勢豈作蚓猫之態」が19億5000万ウォンで落札された。競売会社側によれば、韓国書道作品の競売史上最高額だったという。また2024年2月には、「人心朝夕變 山色古今同」が13億ウォンで落札された。落札したのは半導体製造装置メーカーで、創業者が独立運動家の子孫であることも韓国で話題となった。
さらに2025年には、「長嘆一声 先弔日本」が24億ウォンで韓国側に売却されたと報じられた。この作品は、日本の将来への懸念を示した内容とも解釈されている。現在、韓国政府が国家指定文化財「宝物」に指定している安重根の遺墨は31点に上る。

