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世間や家族や道徳や習慣に縛られている私が「自分とは何か」という疑問にド真剣に向き合った末の「人間らしい結論」

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窓辺で思索する男性
誰しも一度は考えたことがある「疑問」(写真:Pangaea /PIXTA)
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「考える存在」だろうか? もしくは「神の被造物」かな? それとも「直立歩行する存在」?

これは西欧の長い歴史のなかで、議論されてきた問いだ。しかしどんなに考えてみても、その本質を失ったら人間を処分するだけの本質を見つけられない。

息子や娘、会社員であることに意味はない

知能が低かったり考えが浅はかだったりしても、それとは関係なく人間は価値があるし、教会に通っていなくても人間は価値がある。脚を失って直立歩行ができなくても同じだ。

つまり、人間はいすやブタのように単一な本質を持っていない。固定された本質を持っていない自由な存在だけれど、その人生において本質をみずからつくり上げる存在なのだ。それがサルトルのいう「実存」である。

問題は、規定されていない自由な存在である人間を、抑圧的に規定しようとする集団がいることだ。国家、社会、家族、慣習、道徳、宗教、哲学、科学……。こういったことが僕たちを本質として規定しようとした。

僕たちは「国民」であり、「息子、娘」であり、「被造物」であり、「理性的存在」であり、「会社員」であり、「学生」として規定されてきたし、みずからそれが自分の本質だと信じてきたんじゃないか。

ところが、このようなものたちは自分の本質ではないし、自分の本質を保てる存在でもない。

それじゃあ本質として存在しない自分は、どうやって存在しているのだろう?

自分にかぶせられている本質を1つずつ脱いでいって、すべての規定と抑圧からも解放されたのなら、自分にはたった3つだけが残るだろう。

それは、「自分が」「いま」「ここに」いるという事実である。人間は規定されない、絶対的に自由な、実存する存在である。

サルトルはこれによって「人間は自由に呪われている」と言った。ここでいう呪いとは否定的な意味というよりは、人間の宿命について強調する表現だろう。

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