60〜70年代に開発されたニュータウンの多くは、都心部へ通勤する人のための「ベッドタウン」だった。住民は都心で働き、街は住む場所として機能する。
一方、つくばは、研究機関の周辺に住宅や生活機能を整備し、住む・働くを街の内部で完結させる「職住近接」を前提としていた。つまり、つくばは最初から「都心へ通う街」ではなく、「街の中で生活が完結する街」として設計されていたのである。
もっとも、つくばが最初から現在のような都市だったわけではない。研究機関の移転は進んでいたものの、70年代のつくばは商業機能が乏しく、日常生活には不便が多かった。
筑波大学の渡和由准教授は、当時のつくばについて、「電車かバスで土浦市中心部へ行くか、バスと電車を乗り継いで2時間以上かけて東京方面へ向かうしかなかった。いわゆる『陸の孤島』だった」と説明している(『住宅』2015年)。
つまり当時のつくばでは、研究施設はあっても買い物や娯楽の場が十分ではなく、住民が現実的に向かう先は土浦だったのだ。実際、1975年の『土浦市史』には、土浦が「新都市に対する消費都市としての役割を果たすべき」と記されている。当時は「娯楽がなさすぎて心を病む」と言われることもあったらしい。
「研究はつくば、消費は土浦」。当時の土浦が「つくばを支える消費都市」を目指したことには、一定の合理性があったのである。
万博を機に、つくばは「土浦を経由しない街」へ向かった
転機となったのは、85年の科学万博だった。万博の開催に合わせて、つくばの交通環境は大きく変わる。常磐自動車道が整備され、つくばは東京と高速道路で直接つながった。
