気候が一致している? たしかに、極端な寒冷のツンドラ気候の国はない。それでもヨーロッパから南米に至る領域ではかなり幅広い気候帯が横たわる。「熱帯雨林気候がない」と言いたいが、ブラジルにはアマゾンが存在するため、これは該当しない。つまり気候ではまとめきれない。
経済規模はどうか。これも違う。GDP上位の中国、インド、日本といった国々は、ベスト4の経験がない。逆にウルグアイのような経済規模の小さい国が複数回入っている。人口の多寡も決め手にはならない。
唯一、すべての国を横串に刺せるのは「キリスト教文化圏」ということだ。上記の表のうち、数少ない例外である「東欧」と既存のサッカー強豪国を結ぶ線も、このキリスト教文化圏というキーワードにおいてしかない。
実のところ、ワールドカップの約100年の歴史では、ベスト4進出国の96.6%をキリスト教文化圏の国々が占める。例外は、2002年大会のトルコと韓国、2022年大会のモロッコのみだ。22大会でのべ88カ国がベスト4に入ったなか、例外はたったの3つなのだ。
過去の優勝回数がもっとも多いブラジルもそう。近年初優勝を経験したフランスとスペインもそう。さらにいえば南米の優勝経験国ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイもそう。すべてキリスト教文化圏の国々だ。
キリスト教には大きくカトリック、プロテスタント、ロシア正教などの宗派がある。教会という仲介者を介して神に祈るのか、個人が直接神と向き合うのか。その作法には違いがある。
だが筆者がサッカーとの関係で注目したいのは、宗派を超えた共通項となる「骨格部分」のほうだ。
それは、いかなる宗派であれ、人は最終的に絶対者の前に一人で立つ、という構造だ。最後の審判で神の前に立つのは、家族でも共同体でもなく、個人の魂だ。教会が間に入ろうが入るまいが、この一対一の構造は崩れない。
この骨格は、千年単位の時間をかけて、欧州社会の制度のあらゆる層に染み込んでいった。法における個人の権利、契約という概念、責任を負う主体としての「個」——これらはいずれも「神の前に立つ個」という観念が基になっている。
結果、プロテスタント圏のドイツやイングランドであれ、カトリック圏のイタリアやブラジル、アルゼンチンであれ、ピッチに立つ選手たちには共通して、強烈な「個」が宿っている。教義の細部が違っても、社会制度として実装された「個の尊厳」という土壌は同じなのだ。
ここに日本との大きな違いがある。日本のサッカー選手が欧州の地で眺めてきた「現地の強い自己主張」や「先輩に対する遠慮のなさ」は、技術や戦術の問題ではない。それは、社会の側に「個」を支える土壌の違いがあることの裏返しでもあるのだ。
唯一絶対の神がつくる世界
このように、サッカーという世界は「キリスト教文化圏が圧倒的な力を発揮してきた世界」といえる。日本代表はこういった国々の代表チームに勝ててこなかった。サッカーの世界では儒教・仏教文化圏の国という点は「例外中の例外の存在」と捉えうる。あるいはこの考え方が整理できていないことがハンデですらあった。これに基づく考え方が筆者の論の大前提だ。「非キリスト教文化圏の国としてどう振る舞うのか」という観点でもある。
これを論じるために、キリスト教的な要素から一点のみを抽出する。「一神教である点」唯一神、という言い方もされる。神様はたった一人だけ。山の神、川の神、家の神と分かれていない。世界のすべてを統べる絶対の神が、ただ一つ存在する。

