ただ、そんな早熟な布施川さんが育ったのは、教育にたっぷりお金をかけられる家庭ではなかった。
布施川さんの家の世帯年収は300万円台。父親は零細企業勤めのサラリーマンで、額面通りの給料が払われないことも多々あったそう。大学に入るまで家族旅行に行ったことは一度もなかったという。
「一家3人が日々食べていくだけで精いっぱいでした」と本人は語る。
そのうえ、家族が背負っていたのは、目の前の生活苦だけでもなかった。両親の実家はいずれも夜逃げを経験していたという。貧しさは一時的な不運ではなく、家族の歴史のなかに沈殿した現実だった。
しかしだからこそ両親は、布施川さんには教育投資をできる限りしていた。お下がりでもパソコンを与えたり、本や参考書を買い与えた。自分たちができなかったやり直しを、子どもの進学に託そうとしたのかもしれない。
「俺たちの代で貧乏に悩むのは最後にしたいから。お前の代からは、自由に生きてくれ」と子どもの頃から何度も伝えられたと、彼は当時を振り返る。
特待生として高校に進学
中学受験塾には通わなかったものの、布施川さんは私立の共栄学園中学高等学校に進んだ。経済的に余裕のない家庭で私立を選べた理由は、成績優秀者への学費免除制度があったからだ。
「うちみたいな家庭で私立に行けたのは、特待生制度があったからです。だから成績って、“頑張れば褒められるもの”というより、“落としたら終わるもの”だった。特待を維持すること自体が、学校に通い続ける条件でした」
布施川家の家計にとってそれは「あると助かる」制度ではなく、「なければ通えない」制度だったという。
実際、布施川さんは両親から「多少成績が下がってもいいが、特待生だけは死守してくれ」と言われていたという。普通なら少し極端に聞こえる言葉だが、この家ではそれがもっとも現実的な願いだった。成績は自己実現の尺度ではなく、生活の条件だったのである。
もっとも、こうした家庭環境は、布施川さんをただ萎縮させたわけではない。彼は中高で生徒会長を務め、吹奏楽部でも活動した。学校生活の中心にいるような存在で、のちのプロフィールでもその経歴は繰り返し語られている。
ただ、その代わりに犠牲になっていたものもあった。受験勉強に必要な、自分で机に向かう習慣である。東大を意識するころまでに、いわゆる受験生らしい自習の型は、ほとんどできあがっていなかった。
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【東大を目指した】
