では、モノレールは具体的にどのようなルートで建設されたのだろうか。
当時の図面を見ると、まず姫路駅前(北口)を起点に西進し、山陽電鉄と産業道路(県道62号姫路港線)をまたいでいた。その先で大きく針路を変えると船場川に沿って南下し、途中、国鉄山陽本線(当時は地平を走っていた)をオーバークロスする。さらに現在の文化センター前通り付近で船場川を渡ると、そこから急勾配を上り、終点の手柄山駅に到達するという路線だった。中間駅は、産業道路と交差する手前に大将軍駅を設けた。
なお、姫路駅付近(駅西地区)では、それまで道路が狭く小さな木造家屋が密集していたことから再開発事業を行い、新たに幅員20mの都市計画街路高尾線(現・駅西線)を建設。この街路の北側に沿ってモノレールの軌道を設置した。
博覧会開幕には間に合わず
終点を手柄山中央公園にしたのは、1966年4月3日から6月5日の期間に開催された姫路大博覧会のメイン会場であり、その乗客輸送のためだった。開幕に間に合うよう急ピッチで工事が進められたが、駅西地区の用地買収が思いのほか難航した。
結局、モノレールの開業は4月3日の姫路博開幕には間に合わず、5月17日にずれこんだ。建設費も当初の見積もりでは、総額7億4660万円(『広報ひめじ』1964年2月号)と試算されていたが、実際には「駅などの建造のために買収した用地、家屋移転補償費などを含めると十五億円を越える巨費」(神戸新聞1966年5月15日)が投じられた(市の資料では約14億円)。1958年に完成した東京タワーの建設費が約30億円だったことを考えれば、かなりの額である。
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【開業後の利用低迷】
