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わずが8年で終了「姫路モノレール」なぜ短命だったのか 地方都市に最先端の乗り物「姫路の田中角栄」が構想

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姫路市営モノレール 手柄山駅
1966年の「姫路大博覧会」にあわせ開業した姫路モノレールはわずか8年で休止となった(写真:姫路市)
  • 森川 天喜 旅行・鉄道作家、ジャーナリスト
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苦学の末、姫路中学を卒業した石見は、地元の小学校の代用教員を務めた後、工事現場の請負師として一旗揚げるため、立山のダム工事現場で修業を積んだ。その後、東京に出て石見組を立ち上げ、ダムや鉄道建設の仕事を請け負うなどして事業を伸ばしたが、1933年に満州へ渡り、砂利会社を設立した。

手柄山交流ステーションで保存・公開されている姫路モノレールの車両(筆者撮影)
【写真を見る】現役当時のモノレール車内。利用者数は開業年がピークだった

満州国が樹立され、新市街地の建設に沸き立つ新京(現・長春)で、石見は新京銀行と手を組んで南関―新京間9kmに鉄道を敷設し、石材や砂利を輸送した。「数千人の苦力を雇い、手で石を砕かせた。この石材や砂利が飛ぶように売れた」(『愛郷のひと 石見元秀』播磨時報社編)というから、かなりの大事業であった。

だが、この事業は他社のダンピングによって採算がとれなくなり、機関車などをすべて処分し、内地へ引き上げることになった。それでも満州への夢が捨てきれず、1938年春、再び満州に渡り、今度は軍の支援も得て森林伐採業を始めた。しかし、これも戦況の悪化により撤退を余儀なくされた。

終戦直後に姫路市長就任

満州での2度の事業はいずれも頓挫したが、彼の事業手腕は地元・姫路では大きく評価されており、1946年7月、人々に推されて姫路市長に就任した(最後の官選市長)。空襲で全市街地の7割以上が壊滅した姫路市の復興を、白紙の状態から託されたのである。

翌年4月の姫路市長選挙で、石見は公選による第1代姫路市長に就任。行政経験は皆無だったが、土建業の経験をもとに辣腕を振るう。全国戦災都市連盟の結成、大手前通りの建設、山陽電鉄の高架化などの施策を矢継ぎ早に打ち出し、財源には富くじや競馬・競輪など公営ギャンブルの収益を充てた。当時としては、画期的な発想だった。

手柄山平和公園に立つ石見元秀の銅像(筆者撮影)
【写真を見る】わずが8年で終了「姫路モノレール」なぜ短命だったのか 地方都市に最先端の乗り物「姫路の田中角栄」が構想(26枚)

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【道路整備や姫路城「昭和の大修理」も】

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