ここでまず気づくのは、設問の「問い方」そのものが違うということです。
東大の設問は、「何に対するどのような心情か」「なぜそのように感じたのか」など、受験生が考えるべき方向を比較的具体的に示しています。つまり、問いの枠組み自体はかなり親切です。そのぶん、問われているのは、その枠組みに沿って本文を正確にたどり、必要な要素を落とさずにまとめる力だと言えます。
これに対して京大の設問は、「どういうことか」とだけ問うものが目立ちます。しかも「適宜ことばを補いつつ現代語訳せよ」と言われても、何を、どこまで、どの方向で補うのかは自分で判断しなければならない。問いが抽象的であるぶん、受験生の側により大きな解釈の責任が委ねられているわけです。本文を読んで意味を取るだけでは足りず、その意味をどう言語化するかまで含めて考えなければなりません。
「秩序」を求める東大「生成」を求める京大
両者を並べてみると、出題の“思想”がまったく違うことがわかります。東大は、文章の論理構造や古語の意味、主語や心情の向かう先を精緻に把握しているかを重視している。言ってみれば、受験生に「知の秩序を読む力」を求めているのです。
実際、2025年度の東大古文についても、基本語の理解や文脈判断、和歌を文脈の中で位置づける力が重視されたと分析されています。解答欄も比較的コンパクトで、本文から読み取れたことを簡潔に、しかし正確にまとめることが求められています。
一方で京大は、文章の文学性や物語性、そして和歌の響きまで含めて読み取りながら、そこから意味を立ち上げていく力を求めています。京大古文では和歌読解が頻出で、単に古語を訳せるかではなく、その場面でその歌がどう働いているのか、登場人物の感情や文脈の流れの中でどう響くのかを考える必要があります。
つまり京大が見ているのは、「知を受け取る力」だけではなく、「知を生成する力」だと言えるでしょう。
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【古文にも表れる東大らしさと京大らしさ】
