5月3日の今日は、憲法記念日である。憲法によって国家ができあがるのだとすれば、わが国の歴史はここから始まる。この国家はまだ80年の年月を経た若い国だといえる。
憲法という言葉は、英語では「その国を作り上げる」(Constitute)という。つまり国民の意思を反映した憲法が国家をつくるのであり、国家は漠然とそこに存在しているわけではないということだ。
さらにドイツ語では「縛る」(Verfassen)というが、これは国民は国家を縛り、国家の暴走を止めるということだ。
国民国家成立の悲願となった憲法
いずれにしろ、憲法をつくる国民の意思を反映したものといえる。憲法制定は、ヨーロッパにおいて国民国家成立の悲願といえるものであった。
19世紀前半、ナポレオン戦争後に起こった憲法制定運動は、青年たちを中心とする国民国家成立を求めたものであった。言論の自由と憲法制定は、当時の若者たちにとって重要な要求項目であった。

この運動は自由主義運動、共和主義運動、そして社会主義や共産主義運動と呼応して1848年革命につながる大きな波をつくり出す。しかし、人民(People)による下からの憲法を求める運動は、プロイセンでは1848年革命の敗北とともに反故にされ、日本の明治政府に影響を与えるような上からの憲法、欽定憲法(1850年プロイセン憲法)によって、図らずも実現する。
若い頃、1842年に作成された共産主義や社会主義の運動に関する調査書『平等原理と社会主義 今日のフランスにおける社会主義と共産主義』(石川三義/石塚正英/柴田隆行訳、法政大学出版局、1990年)を書いたローレンツ・シュタインこそ、大日本帝国憲法の祖となった。
シュタインの考えではこうであった。フランスのような王政のない国家では不安定が続き、つねに革命騒ぎが起こるが、プロイセンのような国王の存在する地域では、国民の国王に対する信頼があることで革命はなく、社会主義や共産主義などは心配する必要がないというのだ。
国王と国民がこのように結びついている国では人民主権は国王によって表現されているというのは、日本の国体論と相通ずるものがある。主権は人民ではなく、国王にあるという考えが一般化し、憲法が上から作成される。1889年制定の大日本帝国憲法にも、このプロイセンやオーストリアの憲法の影響が強く出ていることは当然である。国王が天皇に入れ替わったのである。
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【国王主権・天皇主権】
