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私たちが手にしている「当たり前」はどこから来たか/日本国憲法公布から80年、日本国民が守るべきは国民主権と平和主義

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日本国憲法が公布されてから80年、憲法改正への動きも目立ち始めた(写真:TTwings/PIXTA)
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1945年8月14日にポツダム宣言を受け入れた日本は、この大日本帝国憲法をいかに存続させるかに悩んだ。当時の支配階級は、ポツダム宣言を受け入れるにあたって、天皇制の存続を第1に考えていたからである。

しかし、ポツダム宣言を受諾し、アメリカを中心とする連合軍の支配を受けたとき、こうした考えは到底受け入れないことにまだ気づいていなかった。

アメリカそしてフランスは、人民による憲法を制定した国であるばかりか、戦後を形づくる国際連合においても基本的人権と主権在民による自主権を実現することを旨とした。

敗戦直後にはすでになかった「国王主権」

それと同時に国家同士の戦争を放棄することをも目的としていたからである。国際連合憲章は、終戦前の45年6月26日に調印されていた。もはや「国王主権」や「天皇主権」という概念は存在する余地はなかった。

しかし、戦後政権を担当したものにこれを理解できるものは多くはいなかった。東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)王(1887~1990年)、幣原喜重郎(1872~1951年)、そして吉田茂(1878~1967年)と続く戦後の首相たちは、天皇制継続を維持する憲法を作成し、マッカーサーと協議するが、受け入れられる可能性はなかったといえる。

幣原内閣当時の憲法問題担当相で法学者の松本烝治(1877~1954年)が作成した「松本試案」が政府案だったが、佐藤達夫『日本国憲法誕生記』、中公文庫、1999年)に詳しいいきさつが書かれてある。

松本案は1946年、GHQ案、マッカーサー案によってほぼ反故にされてしまう。松本案は「天皇主権」「国民の自由の制限」「軍の存続」を求めるという発想に基づいていることで、旧憲法からあまり逸脱していないからであった。

これはおそらく旧憲法の前提になったドイツ帝国そしてオーストリア帝国同様、天皇(国民の体現)という発想が根底にあったからだが、マッカーサー案は国連の発足の決議を受けた案であり、受け入れる余地がなかった。

「泣く子と地頭には勝てぬ」のたとえ通り、政府が、統治は上から行われるという根強い発想から少しも逸脱できなかったからかもしれない。

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【国民と為政者で違っていた望み】

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