最初のうちは、ベッドに入ってから仕事のことを考えてしまう日もあった。それでも、毎日同じ時間にノートを開き、書き出し、そして閉じる。その繰り返しの中で、少しずつ「ノートを閉じたら今日は終わり」という感覚が身についていった。
こうして日記を続けていくうちに、私の中で「儀式」という言葉がしっくりくるようになった。儀式とは、意味を持った繰り返しの行為だ。毎日同じことを、同じタイミングで行うことで、身体と心がそのリズムを覚えていく。日記を開けば「今日を振り返る時間だ」と心が理解していく。
儀式には「ここで切り替えていい」という自分への合図のような意味があるのだと思う。私たちは真面目であればあるほど、自分に休むことを許すのが苦手だ。まだやるべきことがある、もっとできたはずだ――そんなふうに自分を追いつめてしまう。
けれども、儀式という形があれば、その行為を終えた瞬間に、今日はここまでと思える。それは、心に押す小さなスタンプのように、やさしく「もう十分だよ」と伝えてくれる。
あえて「手書き」を選ぶ理由
しかし、なぜデジタルではなく、あえて「手書き」を選ぶのか。そこには、効率性や利便性とは対極にある、身体的な意味がある。
手書きは、決して「綺麗な文字」を残すためのものではない。むしろ、その逆だ。あとから読み返したとき、字が乱れているページがある。一方で、ゆったりとした余白を持って綴られている日もある。デジタルの文字は、怒って打とうが悲しんで打とうが、画面上では同じ形を保ち続ける。しかし手書きの文字は、その時の気分の揺らぎを、文字の震えや余白の使い方として、生々しくそこに留めてくれる。
ペン先が紙に触れ、滑り、かすかな摩擦音を立てる。この「紙とペンが触れ合う感触」こそが重要なのである。スマホのフリック入力とは違い、手書きに伴う微妙な抵抗感や筆圧の加減は、ダイレクトに脳へと伝わっていく。その感覚がスイッチとなり、頭の中に散らばっていた断片的な思考が、整理されていくような実感があるのだ。
「ああ、この日の私は相当、焦っていたんだな」
「この時は、仕事のことなんて忘れて、穏やかに過ごせていたな」
字の乱れさえも、自分を知るための貴重な手がかりになる。それは、タップ1つで消し去ることのできない、自分自身の感情の記録なのである。
次ページが続きます:
【私が愛用しているペン】
