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「こんなに簡単なんだ、お嬢様だと奥様になるの」朝ドラ「風、薫る」で注目 明治に華族が優遇されたワケ

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鹿鳴館で働きながら、結婚相手を探している直美に近づいてきたのは詐欺師でした(写真:cumi-cumi / PIXTA)
  • 真山 知幸 伝記作家、偉人研究家、芸術修士(MFA)
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しかし、身分制度が明確だった江戸時代が終わり、明治時代では、近代的な平等意識が打ち出されて「四民平等」が謳われた……はずである。教育面においても、明治5年に学制が発布され、6歳以上の男女すべてが初等教育を受けられるように改革が行われた。

にもかかわらず、明治の世になっても、身分制度は依然として残っており、それは教育制度にも反映されていた。その象徴が、明治10年に創設された「華族学校」である。

華族学校は、華族の子弟のために作られた学校であり、東京の神田で開校された。「華族学校」で届け出が行われたが、正式な学校名は、天皇の勅諭によって定められている。その学校名が「学習院」だ。

華族学校を創立するにあたって、東京府への届け出は、華族会館長の岩倉具視の名でなされている。華族会館とは、華族によって設立された華族のための組織である。

華族会館の施設には、会議堂が設置され、学務局と書籍局が置かれた。そこで、華族やその子どもたちのための教育がなされており、それが華族学校として組織される格好となった。

そうして明治10年から始まった華族学校だが、実は華族以外の士族や平民の入学も認められていた。例えば、初年度の女子生徒数は、華族の女子が44人だったが、華族以外の女子も15人いる。

しかし、これをもって、身分の壁はなかったとはいえない。授業料について、平民や士族が支払う一方で、華族は支払わなくてもよかったのである。

華族は授業料を払わなくてよい?

学習院はその後、女子部が分離されて、華族女学校が設立された。

初代校長は、学習院長の谷干城が兼務。皇宮付属地の四谷区尾張町で創設されて、明治20年には、御料地の麹町区永田町の新校舎に移転した。

華族女学校の場合は、学習院とは異なり、華族、士族、平民からも授業料を変わらず徴収したが、それものちに変更された。

明治39年に再び、学習院と合併し「学習院女学部」となると、学習院の男子と同様に、華族からは授業料を徴収しない方針へと変わったのである。

結局、男子も女子も、華族は授業料を支払わなくてもよいということだ。

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【華族を一代限りとするべきだと主張した板垣退助】

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