黒岩比佐子氏の『明治のお嬢さま』によると、 明治42年の段階では、学習院女学部では、719人の生徒(専修科が44人、中学科が339人、小学科が236人、幼稚園が100 人)がいたが、そのうち華族は342人と半分にも満たなかった。
華族ではない士族や平民は、華族の仲間に入れてもらうために、華族は支払っていない授業料を負担していたのだと思うと、何とも切ない気持ちになってくる。
ただし、華族は学習院の経費を負担していたため、華族の授業料が免除されていたのは、理由がないわけでもない。それでも、子どもが恩恵を受けるのは、明らかな格差である。平等な教育の理念からは明らかに逸脱していると言わざるを得ないだろう。
明治の末に、華族の在り方をめぐって、谷干城と論戦をした男がいた。板垣退助である。
板垣は自由民権思想に基づいて「一代華族論」を提唱。華族を一代限りとするべきだとした。明治政府が掲げた「四民平等」をふまえれば、もっともな提案だ。
お手本どころか暴走する華族たち
それにしても、なぜ、華族だけ別に教育を行う必要があったのだろうか。
それは、華族こそが、これから近代化する日本のお手本になるべき存在だと考えられていたからだ。
「華族会館章程」にも「華族会館は国民の模範として国の発展させるために華族が勤勉に努力する為の組織」と書かれている。
華族こそが、日本国民を導くような「欧米に出しても恥ずかしくない日本人」だということだろう。そのために教育は、庶民とは異なる空間で行うべきだと、明治政府は考えたのである。
しかし、廃藩置県後に家禄を与えられた旧大名の華族たちの中には、東京での遊興や賭博で家産を蕩尽する者が続出。当時の新聞や雑誌には『華族の芸者狂い』『不品行華族』といった表現が躍るほどで、その素行の悪さは広く知られていた。
国民の規範どころか、問題を起こしてばかりの華族。華族制度は、明治2年から昭和22年に廃止されるまで78年にわたって存続することとなった。
【参考文献】
黒岩比佐子『明治のお嬢さま』(角川選書)
女子学習院編『女子学習院五十年史』(女子学習院)
学習院百年史編纂委員会編『学習院百年史』(学校法人学習院)
