地方の有力な首長がヤマトの大王のところに出向いて、王権と連合するという関係を結ぶと大王の墓よりサイズは小さいですが、大王の前方後円墳と同じ形の設計を用いて、自分たちの古墳を造ってもよろしいという承認がなされたのだと考えられます。
前方後円墳はまさに王権と地方との同盟関係の証だといえます。連合の証を自分の土地(領域)に持ち帰る、つまり前方後円墳を築造するということは、自分の後ろ盾にはヤマト王権がいるということを地域のライバルたちに示す効力もあったはずです。
それがどんどん連鎖して、北は岩手県から南は鹿児島県まで、列島全体に前方後円墳が広がって列島全体を網羅する連合システムができ上がったのです。古代の倭国では戦いによって征服するのではなく、前方後円墳をシンボルとした王たちのゆるやかな政治連合体制ができ上がっていったといえるでしょう。
加えて、メンタル面での統合もはかられました。
古墳時代の前の時代、つまり弥生時代後期は国々が並び立ち、異なる神々を祀って戦っているような時代でした。しかし、2世紀の終わり頃になると国々が卑弥呼を共立し、その宗教的な力のもとで西日本の国々が連合することになります。これが邪馬台国連合です。
そして、卑弥呼の死後に連合が解体しないように前方後円墳を生み出して、これを共有する宗教連合体制が取られたのです。これが古墳時代の幕開けです。
もう1つ、新たな経済連合体制も生まれました。
わかりやすくいうとヨーロッパの国々がEU(欧州連合)に入れるように、前方後円墳をメンバーズカードとして、ヤマト王権を中心とする経済的な連合体制が構築されていきました。
列島の北から、南から、あるいは大陸からの文物が前方後円墳のある地方同士を行き交って、各地に市場が立ち、文物が交換される物流体制ができ上がり、列島をつなぐ経済連合体制が完成していったと考えられます。
暮らしを守ってくれる「我が王」のための墓
古墳時代、倭人は情熱を傾けるかのように次々と古墳を築造していきました。その際、人々に無理やり苦役を課して、労働力を搾取しながら古墳を築造したのではないかという人もいますが、私は決してそんなことはなかったと思います。
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【人々に支持されて初めて王位につける】
