同書によると、京極丸攻めの「一番手」は「御舎弟」の小一郎でした。率いる軍勢は500余人。「二番手」は兄の羽柴秀吉で、軍勢は700余人。「三番手」は浅野長政の600余人。後詰は800余人でした。
一方、京極丸に立てこもる久政の軍勢は、1500余人。秀吉軍は京極丸を夜討ちします。秀吉軍は京極丸に「乱入」し、敵方と交戦。浅井方は、敵わずと山中で退散したそうです。
久政に従う者、ついに20余人となり、久政は自害。京極丸は陥落したのでした。暫くして長政も自害します。
攻撃前、開城を拒否された
ちなみに、同書には、秀吉は京極丸の様子を見た上で、小一郎と蜂須賀小六を使者として派遣したとあります。京極丸が堅固であるので、攻撃前に、速やかに「開城」させようとしたのです。
ところが、城中からは「福寿庵」(浅井福寿庵)という武士が現れ「早々に殿とそれがし共の首を信長公に進上されよ」と言うが早いか、城中に戻っていったのでした。開城を拒否したのです。
ちなみにこの福寿庵は『信長公記』にもその名が現れます。秀吉軍が京極丸を攻め取った直後に「腹を仕」(切腹)った人物として登場しているのです。
以上、『信長公記』と『武功夜話』に拠り、小谷城攻めを描いてきました。『信長公記』には、秀長の言動は記載されていませんでしたが『武功夜話』には、彼の言葉が記されていました。前述したようにそれは事実ではないかもしれませんが、後世、秀長という人物がどのように見られていたかを考察できる素材にはなるでしょう。
(主要参考文献一覧)
・桑田忠親編『豊臣秀吉のすべて』(新人物往来社、1981年)
・藤田達生『秀吉神話をくつがえす』(講談社、2007年)
・池上裕子『織田信長』(吉川弘文館、2012年)
・渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社、2013年)
・桐野作人『織田信長 戦国最強の軍事カリスマ』(新人物文庫、2014年)
・濱田浩一郎『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社、2025年)
