信長は、長政の嫡男を探索させます(この嫡男の母は、信長の妹・お市ではないと考えられています)。
長政の嫡男は10歳でしたが、捕縛され、関ヶ原にて磔に処されました。同書には、信長はそれにより「年来の御無念を散」じたとあります。
浅井氏の旧領は、秀吉に与えられました。これにより、秀吉は織田家の城持ちの重臣となったのです。信長に仕えてから約20年でした。
天正2年(1574)、秀吉は今浜を長浜と改名し、城下町の建設に励むことになります。
士気を上げた秀長の言葉
さて『武功夜話』(織田信長や豊臣秀吉に仕えた前野一族の古記録)にも秀吉による小谷城攻めの記述がありますが、それによると、京極丸を攻めて、浅井父子の分断を献策したのは「軍師」竹中半兵衛とあります。
秀吉はそれを受けて「半兵衛が申しける事、理に叶いけるなり」と言い、評定に入ります。同書によれば、京極丸は、大石をもって砦が築かれ、堀が「十余丈」ある守りやすく攻めがたい城郭でした。
京極丸攻めの直前に横山からやって来たのが、秀吉の弟・小一郎(秀長)や桑山重晴らが率いる800の軍勢でした。
夜中の到着の際、小一郎は「我らは近江国に在番の間、越前の朝倉勢と10数度の戦をしてきた。ところが先の朝倉攻めに参戦できなかったのは残念至極。しかし今回は小谷攻めの先鋒を命じられた。それは兄上の御運が開いたのと同じ。末代までの名誉であり、武名を後代にまで残す好機ぞ」と語ったと言います。
この小一郎の言葉に並み居る人々は感じ入ったそうです。
小一郎が本当にこのような事を言ったかはわかりませんが、戦直前の将兵の士気を上げる言葉ではあります。小一郎の発言に皆、感心したと言いますから、そうした効果があったと思われます。
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【京極丸攻めの「一番手」は小一郎】
