そんな一ノ瀬信右衛門のモデルとなった、大関和(おおぜき ちか)の父・大関弾右衛門(おおぜき だんえもん)も、一本筋が通った性格だったようだ。藩主の大関増裕が自死をほのめかすと、自分も後を追おうとして、増裕にこう止められている。
「殉死に益などない。永らえて余が志を全うすることこそ真誠の忠義である」
増裕の死後、弾右衛門は後を追う代わりに、家老の職を辞すことに。子どもたちには、こんな率直な宣言までしている。
「今日より家禄は云うに及ばず、家も屋敷も返上し、明日からは乞食するかもしれぬが、大関弾右衛門の娘と生れし不幸と思いあきらめよ」
弾右衛門からすれば、増裕以外の藩主に仕える自分の姿が、想像できなかったのだろう。弾右衛門にとって増裕は、自身を家老に抜擢してくれた恩人でもあった。
藩主のもとで藩政改革を主導した
文久3(1863)年、大関増裕は第15代藩主となるやいなや、大胆な人事改革を断行。これまで4名置いていた家老を2名に減らした。そのひとりとして、当時まだ37歳だった弾右衛門を抜擢している。
弾右衛門は増裕の期待に応えるべく、硫黄鉱山開発などの藩政改革を主導。財政を潤わせることで、黒羽藩は高い軍事力を保持することができた。
その成果は幕府も注目するところとなり、増裕は外様の小藩主でありながら、講武所奉行、初代陸軍奉行、初代海軍奉行を歴任している。
いつか役に立つ日が来ると、オランダ語や英語などの語学を学んでおいた甲斐もあったというものだろう。学習意欲が旺盛だった増裕は洋式兵術にも精通していた。その点も幕府に重用された理由の一つだろう。
増裕は自身が優秀だっただけではなく、妻にも学問を奨励。さらに乗馬も習わせて、一緒に江戸に繰り出すこともたびたびだったという。
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【弾右衛門だけに明かされた藩主の苦悩とは】
