「反信長勢力」が勢いづく姉川の戦い前夜、信長の息の根を止めようとした男がたどった悲惨な末路

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ちなみに、徳川家康に背き、武田勝頼に内通しようとした家臣・大岡弥四郎も、この鋸引の刑に処されています(1575年)。

信長出陣、浅井氏の居城に迫る

浅井長政は、越前の朝倉氏と組んで、信長に対抗しようとします。長比・苅安(米原市)の城に朝倉軍を呼び入れて、守りを固めたのです。しかし信長も負けてはおらず、浅井方である堀秀村とその家老・樋口直房を調略。味方に引き入れます。

元亀元年(1570)6月19日、信長は岐阜から出陣しますが、堀・樋口氏が信長に降ったと聞いて、長比・苅安の城兵は退散してしまうのでした。

6月21日には、信長軍は浅井氏の居城・小谷城に迫りますが、力攻めすることなく、町や村々を放火しただけで、一旦、撤退することにします。

この時の織田軍の殿軍は、簗田広正・中条家忠・佐々成政らでした。彼ら3人は敵の追撃に遭いますが、うまく退き、あるいは敵と戦い、味方の撤退を支えたのです。

前述のように、信長は小谷城周辺を放火しただけで、すぐに撤退していきます。これは長政の裏切りに対する報復攻撃であると共に、浅井氏の軍勢をおびき出す作戦だったと言えるでしょう。ところが、長政は信長の誘いに乗らず、主力で追撃しませんでした。

小谷周辺から退いた信長は、浅井方の横山城(滋賀県長浜市)を包囲します。長政の主力部隊が出てこないならば、せめて、中山道と北国街道をやくす横山城を攻略しようと思ったのでしょう。

主力決戦は遠ざかったかに見えましたが、浅井長政のもとに援軍が到着したことにより、流れは変わります。朝倉方からの援軍、朝倉景健の軍勢8000が小谷の東方に到着したのです。

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