「殉教」ではないが「広義の犠牲」という解釈の下、このような責任転嫁が行なわれた。社会運動において、自らの失策や暴走によって生じた悲劇を「体制側の暴力」や「社会の構造的欠陥」にすり替え、運動の正当化や動員に利用する手法は珍しくない。
物語(ナラティブ)の誘惑とその作用について
今回の事件でも、事故発生直後の海保の対応について、SNSで「反対派を敵視する海保が速やかに救助したか検証が必要だ」との識者の意見が投稿され、救助が遅かったことが被害を招いたかのように受け取れる見解が示されている。
なぜか。理由はシンプルだ。まず、「自分たちの理想のために仲間や一般の人々が被害に遭った」という事実に耐えられないため、外部(体制)に悪の根源を求める心理がある。認知の不協和の解消と呼ばれる現象だ。
次に、運動内部のミスを認めると、運動そのものの正当性が揺らぐことになる。そのため、死を「殉教」「大義のための犠牲」に昇華させることで、運動を神聖不可侵なものへ書き換えるのだ。
これは右翼や左翼という党派性・イデオロギーを問わず、どのような社会運動にも共通して起こり得る「犠牲者の政治利用」であり、当然ながら国家は、常にそれを意識的に行なっており、それがもたらす効果にとても敏感である。
マスメディアもその影響を受けるとともに、自身もまた積極的に物語(ナラティブ)を作り出す機能を担っている。実際、センセーショナルなものが反響を呼びやすいという力学の中で、自分たちの思い込みや危険性への内省は麻痺しやすくなる。
わたしたちは、物語(ナラティブ)の誘惑とその作用について、冷静に受け止めながら「悲劇」の消費のされ方を見ていく必要があるだろう。
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