「辺野古のこんな無謀な工事はやめてくれっていう意味で…」 同志社国際高校「転覆死亡事故」が我々を苛立たせる理由

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もちろん、生徒たちは学習コースの1つとして見学していただけであり、抗議活動に参加していたわけではないだろう。だが、抗議活動をする側からすれば、見学はその活動と密接な関係にある。自分たちの思想への理解を求めるだけでなく、「若者が見学に来ているという事実」自体が、活動に正当性を与える材料になるからだ。

そして、死者の言葉として「辺野古のこんな無謀な工事はやめてくれ」というメッセージを表明することは、あまりに直接的な「神聖化」そのものであり、女子生徒がまるで「大義のための犠牲」になったかのような印象を与えている。

「悲劇」を運動の正当化や動員に利用する手法

おそらく今後、追悼行事と称して女子生徒の死が「抗議運動を正当化する犠牲者の象徴」として用いられる恐れがあるだろう。これは非常に危ういスタンスだ。「何が間違っていたのか」という反省のきっかけを失わせる懸念があるからである。

「殉教の政治学」というフレームで眺めると、似たようなバージョンが過去にも起こっていることが分かる。2024年6月に同じく辺野古新基地の建設現場で発生した「ダンプカー事故」である。

辺野古の工事車両の出入り口で、抗議活動をしていた女性と、それを制止しようとした警備員の男性が土砂を搬出するダンプカーに接触。男性が巻き込まれて亡くなり、女性が重傷を負うという凄惨な事故となった。

映像や目撃証言によれば、抗議者が車両の前に飛び出し、それを止めようとした警備員が巻き込まれた形であり、いわば抗議活動側の「危険な戦術」が直接の引き金になった事故でもあった。

しかし、一部の活動家やメディアは、「そもそも政府が強引に工事を進めなければ、こんな事故は起きなかった」「警備体制に問題があった(国に責任がある)」という論調を展開した。

要するに、亡くなった警備員への哀悼よりも、「強権的な工事が生んだ悲劇」という文脈で語り直され、抗議活動の正当性を強化するための「象徴的な事件」という物語(ナラティブ)が生まれたのである。

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