「生まれつき指が6本&猿顔&低身長」"醜悪"と評された豊臣秀吉が天下人になれたのはコンプレックスのお陰

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では、秀吉と同時代に生きた外国人は秀吉の風貌をどのように記述したのでしょうか。秀吉が引き起こした朝鮮出兵において、捕虜となり日本に連行された朝鮮の官人・姜沆。

姜沆の著作に『看羊録』がありますが、そこには秀吉の風貌についての記載もあります。同書には秀吉が尾張国中村郷に生まれたことを記すと共に、その容貌は「醜く、身体も短小で、様子が猿のようであったので、猿を幼名とした」と書かれているのです。

同書は秀吉のことを「賊魁」(賊軍の大将)と記しているように、当然ながら秀吉には批判的な記述となっています。しかし、だからと言って、秀吉の容貌を極端に悪く書いたという訳ではなさそうです。

戦国時代に来日したポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの著作『日本史』にも秀吉の容姿についての記述がありますが、そこには「身長が低く、また醜悪な容貌の持主」と書かれています。『看羊録』の記述と一致しています。

美男子でないことを自覚していた

これまで記してきたように、秀吉は多くの人から猿顔と見做されてきたのですが、違った判定をする者もいました。それが秀吉の主君・織田信長です。信長は秀吉の妻・おねに手紙(年未詳)を出しているのですが、その中で秀吉のことを「はげねずみ」(禿げ鼠)と書いているのでした。

ただ信長は秀吉のことを侮蔑を込めて、そう呼んだわけではなく、親しみを持って、そう呼んでいたと思われます。「猿」に「禿げ鼠」とひどい言われようですが、秀吉も自らが美男子でないことは自覚していました。

「皆が見るとおり、予は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」(『日本史』)と語っているからです。

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