「努力すれば成功できる」は本当か…数百万人規模の遺伝子データが揺さぶる教育の前提
話はむしろ逆だ。いまや遺伝を正しく理解しないまま回避することのほうが、危険である。そして少なくとも現時点での「科学的に正しい遺伝への理解」のモデルの一つを示すのがほかならぬ行動遺伝学なのである。行動遺伝学を批判するなら、まず行動遺伝学を正確に理解する必要がある。
本書は、遺伝的に「優れた者」だけが価値をもつなどとは一切主張していない。遺伝学を根拠に人種改良政策まで実行してしまったかつての優生学は、いまとなってはあまりに荒唐無稽だった。
現時点で同定されているだけでも数千を超す遺伝的変異の総体が生み出し、遺伝率の上限も50%という確率的遺伝現象に対して、人為的な選抜による「遺伝的資質の人類レベルの向上」などは原理的に不可能である。それが国家レベルではなく個人レベルでの「民主的」判断による選抜(いわゆる「新優生学」)や、ゲノム編集によるデザイナーベビーのような〝GATTACA(ガタカ)〟的SF世界に適用しても同じである。
また「優れた」とする基準自体が歴史的社会的に構築された構成概念からなるものなので(これは社会科学や人文科学が言葉を尽くして論証してくれている)、ある時代ある社会の何らかの価値基準に従って目先の優秀さで選抜することなど、遺伝子進化の時間的な尺の桁を取り違えたナンセンスな話である。
個人差は遺伝要因であれ非遺伝的要因であれ必ず生じ、そこに人は価値の差を見出すのだから、問題はその差を差別の根拠とすること自体にあり、遺伝学にあるのではない。つまり遺伝の影響があることと、差別を正当化することは全く別である。
また「遺伝がある=努力は無意味」という解釈も明らかな誤読である。「努力」をどう心理学的に定義するかを論じだすと長くなるので割愛するが(関心のある方は拙編『眠れなくなるほど面白い遺伝の話』を参照ください)、ヒトも生物である限り環境に適応するために「学習」という労をとらねば生きることはできない。そこにも遺伝がかかわるのだから、それは何にどのように努力をつぎ込むかの生存方略の取り方の問題になる。
社会へのインパクト
本書から行動遺伝学を学んだ人が問いかけるべき本当の問いは、そこに優生思想や差別の正当化、努力の放棄、能力主義からの逃避を予感して問題視することではなく、社会のあるゆる側面に遺伝の影響があることを前提としたもっと深い問題である。





















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