「遺伝はタブーではなく事実」最新のDNA研究が突きつける"能力差の現実"
ここで重要なのは、遺伝は「親と同じになる」という単純な伝達モデルではないという点だ。それだけ膨大な、全染色体上に散らばる遺伝的変異が、親から子へババ抜きのように確率的に伝達することによって、遺伝は家族を似せもするが、同時にきょうだいを違わせもすることを合理的に説明する。さらに、環境の影響もまた大きいが、その多くは偶発的なランダム要因であり、ほとんどが予測不能である。
遺伝は決定因ではない。しかしもはや無視できない存在として、われわれは真正面から認識し、人生と社会を考えねばならない世界に突入したのだ、と。
「風が吹けば桶屋が儲かる」問題
このプロミンの雄弁すぎる結論に対して向けられた最大の批判点は、それが遺伝決定論を連想させやすいとか、遺伝率が誤解を生みやすいという外部からよく耳にする批判ではなく、「PGSは遺伝子の分子レベルの発現機構から高次の行動に至る因果のメカニズムを何も説明していない。たかだか10%程度の予測力で現象を説明したと語るのは、科学的説明としての次元が低すぎる」というものだろう。
確かに、DNAから教育年数や精神疾患へ至る過程は、ほとんどブラックボックスである。それはまるで「風が吹けば桶屋が儲かる」と言っているようにも見える。
しかし、もし「強風のとき15%の確率で桶屋の収入が増える」という現象が膨大な事例データで安定して確認されているとしたら、それは科学的予測として無視できないはずである。これは、現代のAIの機械学習や深層学習の状況に似ている。内部の因果構造が明らかでなくても、確率的な精度が高ければ意味のあるものとして受け入れざるを得ない。
こうしたプロミンの楽観性に警鐘を鳴らすのが、行動遺伝学に疑いの目を向ける外部の批判者でなく、行動遺伝学の三原則を打ち立てた、この世界でおそらくプロミンに次ぐ論客であるエリック・タークハイマー(Eric Turkheimer)のUnderstanding the Nature-Nurture Debate(「生まれか育ちか」論争を理解する)によってなされているところが重要である。説明率10%で社会的インパクトを語るのは早すぎる、と。





















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