大正3年(1914年)に、当時東京帝大生だった芥川龍之介一家が越してきた。田端の歴史を記した『田端文士村』(中公文庫/近藤富枝著)には「芥川龍之介が帝大英文科生として田端に第一歩を印したときは、田端は至るところに美術家あり、文学者はゼロに等しかった。(中略)しかし、芥川が移り住み、やがて文壇の寵児となったために、田端は新しく生まれかわるのである」と書かれている。
「君の家のほうが近いね」芥川が田端で交わした日常
田端文士村の歴史について白石さんが続ける。
「田端の文士でもうひとり外せないのが詩人で小説家の室生犀星です。龍之介と犀星は、田端の文学史において二大巨頭であり、彼らの近くで文学を志したいという若者やその仲間が集まって、田端は文士芸術家村になっていきました。彼らは龍之介や犀星に文学を学ぶだけでなく、自分たちで主宰した雑誌の刊行などを行いました。雑誌づくりは作家や編集者の共同作業です。当時はもちろんファックスもインターネットもない時代だから、地理的に近所に住んでいるほうが何かと便利です。田端に文人たちが集まったのは、そうした背景もあったように思います」
芥川龍之介と室生犀星は公私を超えての付き合いだった。双方の住まいに向かう途中でばったり出会うこともあり、「ここからだったら君の家のほうが近いね」と言い合いながら、お互いの住まいに行くようなこともあったという。
ところが、昭和2年(1927年)に芥川が「唯ぼんやりした不安」という言葉を遺して自らの命を絶った。巨星を失った田端から、徐々に文士たちは離れていった。最盛期、田端に集まった文人は数十人規模に及んだ。しかし、彼らが暮らした家は残っていない。
「昭和20年の戦災で文士・芸術家の家はほぼすべて焼失してしまいました。今は静かな住宅街です。ただ、南が低く、北に向かって高台になる坂道の多い地形は文士村であった頃と同じです。ここ(田端文士村記念館)では文士たちが暮らした場所を記した地図を配布しています。これを手掛かりに散策すると当時の文士たちの生活を体感することができます。また、芥川龍之介の家も焼失したのですが、現在は実際に龍之介の家のあった場所に、当時の姿を再現した記念館を建設中です。来年には完成する予定です」(白石さん)





















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