「お味方に参るので、人質をお受け取りください」信長の稲葉攻めで転機 斎藤氏の没落決定づけた"三重臣の裏切り"
永禄7年(1564)には、斎藤の臣・竹中半兵衛重治が稲葉山城を乗っ取り、斎藤龍興を城から追い出すという事件が起きています(永禄8年との説もあり。重治は後に羽柴秀吉の参謀として活躍したことで有名です)。
重治は斎藤氏に成り変わり、美濃の国主になろうとしたとも言われますが、その望みは叶いませんでした。程なく、龍興は重治らを破り、城に戻ります。が、この出来事も龍興にとって大きな衝撃だったでしょう。斎藤氏の権威が弱化していることが読み取れます。
三人衆の人質が届かないうちに、信長は出兵
さて、信長は美濃三人衆から人質を受け取るために、家臣の村井貞勝と島田秀満を西美濃に派遣します。しかし、三人衆の人質が届かないうちに、信長は美濃に出兵。この事を歴史作家の桐野作人氏は「いかにもせっかちな信長である」(同氏『織田信長 戦国最強の軍事カリスマ』新人物文庫、2014)と評しています。
しかし筆者は、信長は機を見るに敏だったと評価したいと思います。グズグズしていたら、どのように状況が変わり、敵(斎藤氏)の有利となるか分かりません。ここは速やかに出陣し、一気に決着を付けるべしと信長は判断したのでしょう(龍興の父・斎藤義龍が死去した際も、信長は素早く美濃に兵を出しています)。
今回、急に兵を出した信長は、稲葉山と続く瑞龍寺山に攻め上ります。斎藤方は「これは敵か味方か」と戸惑っていたようです(『信長公記』)。
これなども、信長が迅速に出兵した効果が出たと言えるでしょう。斎藤方が混乱している間にも、信長軍は町に放火し、稲葉山城を裸城同然にしてしまいます。火攻めの際は、『信長公記』によると、強風だったとのことです。信長は城下に放火しただけではなく、その翌日には稲葉山城の周囲に鹿垣を設けさせ、更に敵を追い詰めます。
そこに参ったのが美濃三人衆でした。彼らは信長の電光石火の攻勢に肝を潰したとのこと。
同書には「信長は何事もこのように軽々とご命令をお出しになった」と記載されています。この軽々と命令を発し、迅速に軍勢を動かすことが信長(軍)の強さの秘訣の1つだと筆者は感じています。





















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