「お味方に参るので、人質をお受け取りください」信長の稲葉攻めで転機 斎藤氏の没落決定づけた"三重臣の裏切り"
また信長は力攻めをすることも時にはありますが、敵方の調略も行っています。味方に損害を出さず、敵を降ろすことができたならば、これ程、良いことはないでしょう。信長の攻撃により、美濃の豪族の多くが降参。美濃国の大名・斎藤龍興は舟で逃れ、伊勢長島に向かったとされます。
龍興の逃亡直後、信長は伊勢国を攻めていますが、これは伊勢長島に逃亡した龍興を追撃したものと考えられています。その後、龍興は諸国を流浪し、一向一揆や三好三人衆、越前の朝倉義景などと組んで信長に反抗しますが、天正元年(1573)、織田方との戦いで戦死したと言われます。
稲葉山攻めでは豊臣兄弟も活躍
さて『武功夜話』(尾張国の土豪・前野家の動向を記した覚書などを集成した家譜・軍記物。内容の信憑性は低いとされている)には、稲葉山攻めの際は、木下藤吉郎(秀吉)も墨俣から兵を出し、活躍したことが記されています。
藤吉郎は2000有余の軍勢で、稲葉山城に先駆け、城下に放火。城に猛攻撃をかけたとあります。その攻撃に斎藤方は蜘蛛の子を散らすように逃げたとのこと。秀吉の弟・小一郎(秀長)も墨俣を発向し、稲葉山に向かったことも記載されています。
それはともかく、数々の苦心の末、信長はついに美濃国を手中にしたのです。あれだけ頑強だった斎藤氏が没落したのは、美濃三人衆の離反が大きかったと思われます。美濃の稲葉山に移った信長は、井口という地名を改め、岐阜とします。
(主要参考文献一覧)
・池上裕子『織田信長』(吉川弘文館、2012年)
・桐野作人『織田信長 戦国最強の軍事カリスマ』(新人物文庫、2014年)
・濱田浩一郎『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社、2025年)
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