「古臭い柔術をつくり変えよう」ハーン招いた嘉納治五郎が柔道を創り上げたワケ
だが、赴任した熊本第五中学校では、得難い経験もあった。それは、校長の嘉納治五郎との出会いである。治五郎のことをハーンはこんなふうに絶賛している。
「性格は同情心にあふれ、まったくかざらず正直です。これは人格のできた人の特色といえるでしょう。一度会っただけで、久しい友であるかのような気がするのです」
柔道を創り上げて「柔道の父」とも呼ばれる嘉納治五郎。彼もまたハーンと同様に、つらい幼少期を乗り越えて、柔道の技だけではなく、人間力をも培うことになった。
教育熱心だった治五郎の父と母
嘉納治五郎は1860年、摂津国御影村(現・兵庫県神戸市東灘区御影町)にて、酒造、廻船業で有名な嘉納家の三男として生まれた。2人の兄と2人の姉がおり、治五郎は末っ子として育てられる。
父は全国の取引先を回るため多忙で、留守が多かった。そのため、もっぱら母に育てられることになった。
幼き治五郎が不思議だったのが、近所の子どもたちが大勢自宅に遊びに来たときに、母はきまって友だちばかりによい菓子を与え、息子である自分には小さくて不出来なものばかり与えたことだ。
「お母様はどうして、よその子にいいものをあたえてしまうんだろう」
他者への思いやりあふれる母の言動。治五郎は成長するに連れて、その大切さに気づいたようだ。のちに教育者として、身分を差別することは決して許さず、熱心に生徒に授業を行うことになる。
そんな母を9歳のときに亡くすと、東京で父と暮らすようになった治五郎。一方の父は多忙ながらも治五郎の教育に熱心で、儒学者を家に招き、書道や漢字、四書五経の素読を習わせた。
自身が教えるのも好きだった治五郎は、年下の親類の子どもたちを集めては、教わったばかりのことを夢中になって伝えたという。
ハーンは、幼少期に両親が離婚し母のもとで育てられるが、その母さえも再婚相手のもとへと去ってしまったため、親戚のもとに預けられている。
そんなハーンとは異なり、両親からの愛情を感じながら育った治五郎だったが、東京の私塾「育英義塾」に入門すると、生活は一変。先輩からは連日厳しくしごかれるという、過酷な寄宿舎生活となった。





















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