タワマン増殖で「西日すら当たらない」と嘆く旧住民たちの"現実" 中央区「勝どき」から失われたものはこんなにもあった

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2000年に大江戸線の駅ができてからは再開発が進んだから、立ち退きやなんかで勝どきから出ていく人も増えた。タワマンのおかげで街は賑やかになってるけどさ、私らみたいな古くからの住民にとっちゃ、寂しい気もするね」(平松さん)

平松商店
平松商店(筆者撮影)

立ち退き料で2億円を提示された人も

「昔はこのへんは、長屋が多くてね。石川島(東京都中央区佃1丁目にある、隅田川河口の三角州を埋め立ててつくられた島)が近いから、船の部品を作る町工場なんかもたくさんあった。

それも時代とともに減ってきた。大江戸線の勝どき駅ができる前のバブル全盛のころも、このあたりはわりと注目されていたんだよ。地上げみたいなこともけっこうあったね」(平松さん)

これは平松さんのお宅ではないが、近所の住民に話を聞くと、バブルの時代には十数坪の土地に2億円の立ち退き料を提示された家もあった。

長屋が軒を連ね、下町の雰囲気が色濃かったころを懐かしむように平松さんは続けた。

「最近はタワマンの住民さんが増えて、昔からの人が減ってきたから、街を歩いていて”ようっ元気か”みたいな挨拶がめっきりなくなったね。

でも昔は地元の住民の結びつきは強くてさ、”無尽講”ってわかるかな。近所の住民でグループをつくって、毎月少しずつお金を出し合って、それを貯めておくんだ。誰か困ったときにはそれ配分したりね。そういうつながりがあったけど、今はなくなったねぇ」

また、平松さんが小学生のころ(1950年代前半)は、隣接する晴海地区に進駐軍の飛行場があった。その敷地のすぐそばには畑が広がっており、子どもたちの格好の遊び場になっていたらしい。

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