先に述べたでたらめな再分配は、日常的に感じているこの相対的剥奪感をさらに悪化させる一因になるだろう。再分配は想像以上に社会的承認と結び付いている。しかも、その不公性さを通じて自覚されやすい。つまり、個々の尊厳への配慮が欠如している状態を助長する意思決定を行う政治勢力からの最後通牒となりうるのだ。
ヤングは、「後期近代の世界を生き延びるためには、相当な努力、自己統制、抑制が必要である」とも述べているが、これは常に「倹約」「禁欲」を強いられる立場といえる(前掲書)。日本においては、働くことが人格を陶冶(とうや)し、その精神を美徳とする勤労観がここに加わってくる。
要するに、わたしたちは仕事や生活において、破綻を来さないように常に自制しなければならない。家族の生活水準や社会的地位を維持するための自己犠牲を受け入れ、絶え間ない不安と緊張にさらされている。
不確実性と不確定性が支配する先行きが不透明な世界において、病気や事故などによる「自己管理能力の喪失」におびえ、解雇や取引停止などをきっかけにして「自己の尊厳が失われる可能性」に絶えず付きまとわれながら、その一方で、「何かが起こった場合の確実なセーフティネット」を切実に必要としてもいる。そこでは「負担」と「取り分」の公平性が重視されることは言うまでもない。
公平性が無視されることによりたどり着く被害者意識
そのため、正当な理由もなく給付を受けているように見えたり、給付に合理的とは思えない格差が存在する場合、多くの人々はそれを「不当な不労所得」とみなすのである。
この感情は「働いて稼ぐことが当たり前」という世間的な価値観に裏打ちされたものだが、不信感をつのらせるような先の救済策によって一気にマイナスの効果が発揮される。
すでに致命的な状態にある国民間の分断は、さらに深まることになることは明白であり、勤労意欲も削がれてしまうことが懸念される。
「負担」と「取り分」の公平性が無視されることによってたどり着く究極の心理は、「自分のお金が盗まれている!」「自分が本来得られるはずの権利が奪われている!」という被害者意識だからだ。
2万円という金額だけを見ると、大したことではないように思うかもしれない。だが、最も抑圧的な働き方を余儀なくされている現役世代に対する嘲笑として認識されるには十分過ぎる金額なのだ。
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