
テレビや新聞などまで取り上げ始めた予言騒動――。気象庁までが異例のコメントを出す事態になった。
6月13日の記者会見で、気象庁の野村竜一長官は、「2025年7月5日に日本で大地震が起こる」というウワサについて、現代の科学的知見では日時と場所、大きさを特定した地震の予知は不可能だと述べ、「そのような予知の情報はデマと考えられる」と明言した。そして、日本ではいつどこでも地震が起きる可能性があるとして、日頃から地震の備えの確認をすることを勧めた。
大災難予言→大災害として独り歩き
たつき諒氏の漫画『私が見た未来 完全版』(飛鳥新社)に記されていた「本当の“大災難”は2025年7月にやってくる」というメッセージが独り歩きし、いつの間にか「2025年7月5日に日本で大地震が起こる」といったウワサが日本や海外のSNSで拡散することになった経緯がある。
もともとの内容では、地震ですらなく、フィリピン沖での海底の噴火による「大津波」が日本を襲うという予知夢であったが、そこから派生した予言が急成長して新たな予言ブームが到来した格好だ。
まるで「大津波の予知夢」が、大地震や富士山の噴火、隕石の衝突等々とその形態を次々と変えながら、「7月5日」という運命の日に向かって急激に膨張し始めた化け物のようである。
社会現象となった今回の予言騒動は、ウワサというものがいかに勝手に尾ひれを付けて、世の中をかき回すものであるかが分かる絶好のエピソードになっている。
"予言"を信じない人も、迷惑を被る可能性が…
予言を信じていない人が大半であっても、予言が一定の影響力を持つ社会現象となり、それに引きずられる人が現れてしまう以上、何かしらの騒動を引き起こす可能性は否めない。
しかも、その騒動は、予言に無関心な人々に「迷惑をかける」という形で周囲を巻き込んでいくことだろう。前回取り上げた「予言の自己成就」がまさにそうだ。「ある予言」が拡散されることで、拡散以前にはあり得なかった出来事が生じて、あたかも予言の内容と同等の影響を人々に与える事態を指している(関連記事:「7月に日本で大災害」"予言"が外れても喜べないワケ)。
ここでの本質は、「災害が実際に起こる」ということではなく、「災害が実際に起こる」ことを前提にした行動が誘発されることにある。
MIT(マサチューセッツ工科大学)の研究者で、データサイエンティストのシナン・アラルは、「フェイクニュースの困ったところは、同じようなニュースが何度も繰り返し、同じようなパニックを引き起こすということだ」と述べた。「偽の情報は本物の情報よりも速く広まり、人々の行動を誤った方向に導く。情報は偽物でも、行動は本物で、それによる影響も本物である」と(『デマの影響力 なぜデマは真実よりも速く、広く、力強く伝わるのか?』夏目大訳、ダイヤモンド社)。
社会学者の廣井脩(おさむ)によれば、今回のような予言騒動は、昭和の時代から繰り返されているお馴染みの流言だという。
廣井は、「流言のなかには、ほとんど同じ内容が時期をへだててくりかえし出現するものがある」と指摘し、「この種の流言は、いったん出現した後まるで水に潜ったようにしばらく影をひそめ、機会を得てふたたび広がるため、さしずめ『潜水流言』とでも呼ぶべきものである」と名付けた(以下、『流言とデマの社会学』文藝春秋)。
そのなかで最も頻繁に現れて消えていくのが、「〇月〇日に大地震が起こる」という「地震再来流言」だと明確に主張している。今回の予言は、ウワサの発端はマンガ家が書いた「大災難」という言葉や大津波の予知夢であったものの、結果的に日本だけでなく、香港や台湾でも「2025年7月5日に日本で大地震が起こる」というウワサが広まっていることから、「地震再来流言」と考えることができる。
昭和にも大地震発生の流言が…
廣井は、今から半世紀以上前の1973(昭和48)年に「六月一一日午後一一時三八分、千葉県館山市を中心とする房総半島一帯に、マグニチュード八の地震が発生する」という流言が広がった事例を紹介している。
当時の毎日新聞によると、その流言は、4月頃から館山市内の小中学生の間で囁かれていたという。6月になると同市以外の木更津市でも学校の話題に上るようになり、千葉県の教育長が「根拠のないデマにまどわされないように」という通達を各校宛てに出さざるを得なくなるほどであった。館山市内の電気店では懐中電灯が飛ぶように売れ、在庫がなくなる店も少なくなかったとしている。
一方、流言の出所がはっきりしているケースもある。廣井は、1974(昭和49)年に大阪府八尾市にある新興宗教の教祖が、「この度、地球上に聖霊降りて大地震の起こることを予言なされています。時は、来る六月一八日午前八時前後。規模は恐らくマグニチュード九以上。今回は地球的にゆれます」という予言をし、「一同心して一時も早く大都市より安全地帯に分散せよ」と書いたビラ20万枚を、東京・静岡・名古屋・大阪・神戸などにバラまいた事例を取り上げている。
その際、予告された「運命の日」の数日前から、東大阪市や八尾市で非常用食料が爆発的に売れ、その当日には堺市の小中学生が午前8時を過ぎてから登校するという事態になったという。
だが、予言が外れてからの展開が凄まじかった。教祖が責任をとって自殺を図ったのである。一命を取り留めたが現場は血の海で、かなりの重傷であったことが当時の週刊誌の報道からうかがえる。
前回の記事でも触れたように、予言の失敗は、強く信じている人ほど自らの認知を変えないと耐えられないほどの「不協和」を引き起こし、その「不協和」をあらゆる手を使って解消しようと躍起になる点に真の恐ろしさがある。
買いだめの危険性も拭えない
予言の失敗に伴う自殺騒動はさておき、買いだめ騒動は世の中に非常に大きな影響を与える。
古くは1970年代にイスラエル・アラブ諸国間で勃発した第四次中東戦争に端を発するオイルショックに伴うトイレットペーパーの買いだめがあった。近年もコロナ禍にトイレットペーパーの買いだめが起きている。
どちらも共通しているのは、危機的な状況下で社会に混乱が広がる中で、「トイレットペーパーがなくなる」というデマをきっかけにして、人々が小売店に殺到したことである。
現在は、オイルショックやコロナ禍と状況は異なるが、エスカレーションする中東情勢や物価の高騰という"経済的な被災"によって、危機的な空気が醸成されているように思える。デマが暴力性を発揮する余地が生じているといえるだろう。
前掲のデータサイエンティストが発した「情報は偽物でも、行動は本物で、それによる影響も本物である」という警告を侮ってはいけないのだ。
そもそも人々の不安は購買行動に表れやすい。パニックで大量に品物を購入する人は、消費者全体の5.8%とする研究結果があったが、その5.8%の極端な購買行動に周りの人々が巻き添え被害を受けることになるのだ(Consumer panic buying: Understanding the behavioral and psychological aspects)。
災害に備えて、普段の買い物のときに少しずつ買い足しを行う「ローリングストック」という方法が推奨されているが、例えば、予言の日が迫る中で人々が一斉にそれをやり始めれば品物によっては払底しかねない。
デマの脅威はそれだけではない。予言は、陰謀論と同様に、信じる者と信じない者の間の分断を深めていく。コロナ禍で陰謀論がSNSによって広く浸透するようになり、家族の仲たがいを後押ししてしまったように、運命の日はその決裂を決定的なものにする機会になるかもしれない。
重要なのは、地震などの自然災害は予言などお構いなしにこれまでも起こってきたし、これからも起こり続けるということであり、特定の日に向けてカウントダウンしないではいられないこと自体がどこか空想めいていることに思いを致すべきなのだ。
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