東雲の湾岸タワマン繁栄で「キャベツも買えない」団地の旧住人たちが発生したワケ 「フード・デザート現象」起きる街で見えた30年後の光景
辰巳小学校の設立は1968年で、第二辰巳小学校は5年後の1973年だ。2つの小学校の設立は、この地域の歴史と深く結び付いている。
タワマンに住む「キャナリーゼ」と対する「団地族」
運河ひとつを隔てて隣り合う辰巳と東雲。辰巳地区にも、タワマンがあるにはあるが、目立つのはやはり東雲のタワマン群だ。
東雲地区は、2000年以降に都市計画(総面積16.2ヘクタール)が決定され、UR都市機構が中心となって開発し、いっきに住民が増えた。今では屋上にヘリポートのあるタワマンが10棟近く建っている(100m以上のマンションにはヘリポートの設置が義務化されている)。
実は再開発の歴史でいうと、辰巳地区のほうが先輩だ。一帯は大正から昭和にかけて、埋め立てによって造成された地域だ。ところが、埋め立ててはみたものの、どこの区にも属さない時期が長く続き、土地の開発は滞っていた。そんな辰巳が江東区に編入されたのは1966年のこと。さっそくその翌年から、一帯の開発が始まった。
当時は高度成長のまっただなかだ。増え続ける首都圏人口の住まいとして、都営辰巳一丁目アパートが計画された。総戸数3326戸で87棟、総敷地面積は約14ヘクタール。都内では最大級の団地だった。


辰巳一丁目アパートを含め、同時期に都内にはいくつもの大規模団地がつくられた。急増する若いサラリーマン世帯が移り住み、大規模集合住宅での新たな生活様式が生まれた。
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