巨人戦のナイターは「視聴率20%前後」を確実に稼げる「打ち出の小づち」であり、民放各局は巨人に頭が上がらなかった。また他のセ・リーグ球団も「放映権収入」があるために巨人に強く出られなかった。こうした「巨人戦放映権」を中心としたビジネスモデルは、2004年の「球界再編」まで40年も続くことになる。
もちろん「巨人一強体制」は、長嶋茂雄だけで成ったわけではない。しかし1958年の長嶋入団、そして翌年の「天覧ホームラン」が「ご成婚」という国家的慶事とシンクロしたこと。
さらにそれ以後も人気絶頂の長嶋が王貞治と共に巨人を最強チームに押し上げたことを考えると「巨人一強体制」の中心に長嶋茂雄がいたことは、ゆるがせない事実だろう。

プロ野球を「子どもの夢、憧れ」にした
筆者は関西に生まれ育ったが、子どもたちが被る「野球帽」は、関西でもYGマークの巨人しかなかった。
長嶋茂雄が巨人に入団した1950年代後半、「少年雑誌」の創刊が相次いだが、その表紙には「長嶋茂雄」の写真が踊った。また連載漫画でも長嶋を主人公にしたものが数多く出た。
それ以前から野球漫画は存在したが、実在の選手を主人公にした漫画は「長嶋もの」が最初だった。中には長嶋がバットで宇宙人を撃退するといった荒唐無稽なものもあったが、子どもたちはこうした漫画を読んで、長嶋に親近感と憧れを抱いた。
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